極貧というほどでもなく、天涯孤独でもなく、被差別というわけでもなく、おそらく当時としてはありふれた家庭で育った主人公。しかし彼女にはそれが許し難いものだった。 しみったれた生活にがさつな母親。この私がこんな境遇に置かれていいはずがない、こんな女が私の親などであるはずがない。 私は、高貴な筋の落し胤。裕福な家庭で上品な家族に愛され育った。美しいものだけに囲まれて。
そして彼女は現実の自分を根絶やしにしていく。 自身の出自に対する執拗なまでの憎悪を以って。
人を騙すには先ず自分から。そうするううちに妄想と現実との境目などなくなる。 他人が捏造呼ばわりしようが何を言おうが、自分がそう有りたいと望む世界だけが彼女にとっての真実となった。
ドロドロの人間模様にハマってしまいました。
題材は『嫁姑バトル』と『麻酔薬完成&世界初の全身麻酔手術成功』です。でも、そんじょそこらの一般家庭の嫁姑バトルと違い、ヒステリックに罵り合ったり、あからさまな嫌がらせをしたりということはありません。
紀州の外科医である華岡青洲さんを挟んで、そのお母さんと奥さんが、自分こそが青洲さんの麻酔薬完成の役に立とうと、静かに火花を散らし合います。
そんな2人の気持ちを上手に利用して世界初の偉業を成し遂げる青洲さんと、3人を冷静に眺めている青洲さんの妹さん。
癖になって何度も読み返してしまう、そんな本です。
週末、買い物帰りに昭子は雪の中を外套も着ず足早に歩いて行く舅と出会う。
声をかけると、昭子と一緒にもと来た道を戻り始めた。
舅はどこへ行こうとしていたのか。
この日、庭続きの別棟に住む姑が亡くなり、舅が「呆け」始めている事に気づく。
昭和47年に本書が発表されてから老人問題は何も進展してはいないんじゃないか
と思うくらい、作中と今との社会に対する嘆きは一緒である。
義理の父にいびられ続けてきた昭子が「女」である為に
結局は茂造の面倒をみなければならない。
実の息子である夫、信利の態度に
「家出して全部信利に押し付けてやればいいのに」と何度思った事か。
頑丈で偏屈な茂造が全てを忘れて、
今まで見せる事のなかった笑顔を時折みせるようになったと思ったのもつかの間
体が弱ってきて、周囲に対する関心も失われ、再び笑う事もなくなっていく。
時間の経過がせつない。
「人は何の為に生まれてきたのだろう」と思わされる作品。
1972年の段階で老人性痴呆という医学を超えた社会問題に着目した原作者有吉佐和子の慧眼には驚嘆敬服のほかはない。
恐らくはそれ以前にも随所で発症していた障碍がこれで一挙に市民権を得た功績は大であるが、かといってその治療が大きく前進したり、家族などの介護者が楽になったという話はてんで聞かない。むしろますますその被害波及の度は増大しているように実感される。
さてこの映画では、認知症の老人が激しく物忘れをしたり、脱走・徘徊したり、入浴中に溺死しそうになったり、糞便を塗りたくったり、かなりショッキングな光景が繰り広げられるが、最終的には嫁の超人的な奮闘努力のお陰で、症者がなんとかかんとかそれなりに仕合わせな生涯を全うするという結末は、しかしいま今振り返ると、現実の酷薄さと悲惨さを直視しない曖昧模糊とした不透明さがあり、原作者の余りにも文学的&情緒的な視点が物足らない。
全ての症者が次第に理性と悟性を喪失して無垢の幼時へと退行したり、甲斐甲斐しく介護してくれる嫁を恋人や母親のように疑似童話風に思いなしたりすることはない。またあれほど迷惑を蒙った嫁が、死んだ老人を懐かしく回顧して落涙するラストも、かくあれかしと誰もが望むのは勝手だが、余りにもご都合主義だし浪漫的であり過ぎる。現実はあんな甘いものではないのである。
しかし小説や映画はあくまで現実とは異なる異次元の世界なので、本作が時代的な制約もある中で、ある種の予定調和的なエンディングに着地したのはやむを得ない仕儀とは言え、それなら、雨の降りしきる中で老人が見惚れる垣根の白い花が見え透いた造花であるのは少なからず観客の感興を殺いでいる。森繁久弥と高峰秀子の熱演は賞賛に値するが、豊田監督のぬるい演出には疑問符が付くのである。
知的刺激に充ち満ちた一冊。文庫本の600ページを全然長いと思わせない面白さ。最後まで読ませる、小説であって小説でないような、一人称語りのノンフィクション。
いまからすでに、37年も前の作品だが、古さをまったく感じさせない。
本書は、初版が1975年、元は1974年に朝日新聞に毎日連載されていた「新聞小説」だったというのは、さらにまたオドロキだ。「数年前から連載小説を書く約束をしていた朝日の学芸部に、私からお願いして、こういう内容だけれど必ず読者を掴まえて見せますからと公言して書かせて頂いたもの」(あとがき)だそうだ。
1974年は石油ショックの翌年、「高度成長」時代を突っ走ってきた日本が、さまざまな問題をつうじて、高度成長のひずみが一気に噴き出した時代である。当時は「環境問題」ではなく、「公害」といわれていたが、カネミ油症事件や水俣病などだけでなく、日常的に光化学スモッグなどにさらされてきたのが日本人である。私自身も、子どもの頃にそんな時代を過ごしてきたのだが、著者の表現ではないが、世界から「人体実験」の場と見られてきたのも、けっして誇張ではない。今回の「原発事故」による放射能漏れにかんしても同じなのではないか、という気持ちにさせられるのである。
殺虫剤、農薬、工場排水、排気ガス・・・。それらに含まれる一つ一つの化学物質についても、危険度が完全にわかっているとは言い難いのに、さらにそれらが「複合」しているのであれば「汚染」の度合いはいったいどうなのか? ほんとうのところ、いまだによくわかっていないのだ。
読んでいて思うのは、この国の「近代」とは、いったいなんだったのかというため息にも似た感情だ。農業もふくめてすべてを「工業化」するという発想にもとづいた政策。この政策はが現在でもまったくゆるまることがないのは、「原発事故」に際して露呈した、監督官庁と産業界と御用学者との癒着に端的にあらわれている。一言でいえば「消費者不在」に尽きる。果たしてこの国は先進国といえるのだろうか??
有吉佐和子の作品は「恍惚の人」などタイトルのうまさが流行語になるので、名前は知っていたが、じつはいままでまったく読んだことがなかった。本書は、有吉佐和子ってこんなに面白かったのか! という新鮮なオドロキを感じる本である。
著者は、この本を書くために参考文献を300冊以上読み、何十人もの専門家に会ったという。これだけの筆力のある作家が、自分が生きている時代に起こっていることに対して問題意識と好奇心のおもむくままに突撃取材を積み重ねた内容。これが面白くないはずがない。そうでなければ、科学技術と工業、そして農業や漁業との関係を扱った本が当時のベストセラーとなっただけでなく、現在でもロングセラーとして読み継がれているはずがない
さまざまな感想をもつことは間違いない。それだけ、知的な満足感の強い、面白い作品なのである。
化学物質による「複合汚染」だけでなく、さらに「放射能汚染」問題が加わったいまこそ、ぜひこの機会に手にとって読み始めてほしいと思う。
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