正続の続とあるが、むしろ前編後編の後編で前作とあわせて一巻をなす。
前作は谷啓が作家性を引っ込めて役者に徹していたが、今作では谷啓考案のギャグだと思われる箇所が随所に顔を出し
監督は谷啓の気なようにのびのびと演じさせている様子が伺えて楽しい。
時代背景は二次大戦から戦後・朝鮮戦争の特需へと移り変わるが、戦後以降が急に行き来としてくるのは
いかがわしい主人公と時代のいかがわしさがぴったりマッチしているからだろう。
「虎屋の令嬢変じて今ではパン助では活動写真並だ」映画の自虐ギャグが笑えます。
満州馬賊の三田村役が、何の事情か、西村晃から、多々良純に変わっているのが惜しい。
西村晃の方がずっとインチキ臭くて適役なのである。
いい本だったなと思う。
先生のお守りをしているように感じていた主人公があることをきっかけに、
自分は先生に守られていると感じる瞬間は、その光景はもとより、小説でしか味わえない言葉のすばらしさをも感じさせてくれた。
行間から湧き出るぼんやりとしたやさしさは一体どこから来るのだろう。
著者だけでなく、先生だけでなく、登場人物たちのそれぞれの人としてのやさしさなのだろう。
南北朝という日本史上最も矛盾に満ちた混沌の中で、ただひたすらに純粋に熱く生きた北畠顕家の短くも激しい青春の物語。いかに美しく死んだかを男の価値観とする北方謙三により躍動感満点の主人公に描かれています。北方歴史モノは主人公の選び方が良い意味で趣味に偏っていて、ニンマリさせられますね。北畠顕家もかつて大河ドラマ「太平記」でゴクミ(!)が演じていて、妙に心に残る人物でした。本当にこの若さでこれくらいの武将としての成熟度があったのかどうか。もっと若さゆえの脆さがあった方が(史実はともかくも)共感できたような気もします。それをおいても相変わらず素晴らしいのは北方先生の合戦の描写。特に騎馬隊の疾走感は砂埃の息苦しさや、頬を伝う血の混じった汗の匂いすら感じさせます。
シリーズ第4作、1964年10月17日公開作品、併映は座頭市血笑旅、なんと東京オリンピック開催期間中である、日本中がオリンピック一色だったにもかかわらずシリーズ最高のヒット作となった傑作娯楽時代劇、女妖剣は「じょようけん」と読む、 前3作で確立した雷蔵・狂四郎のキャラクターと舞台設定が本作では一気に狂四郎出生の秘密開示にまでおよぶ、己の出生事情を知った本作以降、巨大な虚無感を背負った狂四郎は子供を除く一切の悪人を容赦無く切り捨てるキャラクターとなる、 81分の短い映画だが、活劇(チャンバラ)と狂四郎を誘惑する当時のグラマー女優(久保菜穂子、春川ますみ、根岸明美ほか、藤村志保さえここではエロ担当)が繰り返し登場し一種のローラーコースター・ムービーに仕上がったことがヒットの最大要因、池広一夫監督の起用が森一生や三隅研次のような端正な作風の監督ではとうてい無理なアクション映画として大成功した、 撮影時、32歳の雷蔵は発病前の最も体力充実期とおもわれ、威風堂々としてなおかつ上品この上ない佇まいは唯一無二、正に不世出の映画俳優である、逆にシリーズ後半の発病後は本作と比べれば実に痛々しいともおもう、 当時のプログラム・ピクチャーとしては精一杯の久保や春川の脱ぎっぷりは現在のように露出が当たり前の時代だからこそ逆に不思議に隠微な情緒が醸し出されており貴重である、シリーズ二度目の出演となる城健三郎(後の若山富三郎)演じる少林寺憲法の使い手との対決が決着しないまま城の三度目の登場はないのはシリーズ全体とすれば少々残念なところ、
加藤嘉演じた勘定奉行というのは、当時実際にあった役職なのだろうけど、こんにちの経済学者の姿をそのまんま過去に投影したのではないだろうか。
ここでの雷蔵は、気取って喋ったときの西村雅彦に似てると思った。西村が意識したのだろうか。「ある殺し屋」「陸軍中野学校」などでは全然似てないけど。
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