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軽蔑 ディレクターズ・カット [DVD]
結婚ってぇのは名ばかりで、所詮、ママゴトに過ぎない。 しかし、2人の迷走を絶えず放っておけない眼で観てしまった。 後先考えずに転がり落ちても、なお愛撫し続ける男女に対する若さへの憧れにも似た嫉妬心が我が胸を小突いたからだろう。 今作では鈴木杏と高良健吾が一糸纏わぬ大胆なベッドシーンが話題となった。 彼女の、存在感あるフェイスに反して小ぶりな乳房と可愛らしい腰回りが男性本能をそそる濃厚な絡み合いをキケンに奏で、想わず息を呑む。 妖艶な色気に咽せる一方、どこか純真無垢なあどけなさを漂わせる小悪魔のような裸体が印象深い。 未完成な身体による未完成な情事は、時として醜く、時として美しい。 2人の恋なぞ、如何にガキっぽく、成就しない関係であるかを象徴している気がして、切なさが後味を残す。 二日酔いの朝に呑み干す赤ワインとよく似ている。 路地裏の酒場でクダを巻き、ママさんに慰めてもらいたい夏の帰路であった。 では、最後に短歌を一首 『夜走る 裸足の男女(ふたり) 濡れる路地 椿焦がして 雨かぶる恋』 by全竜
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日本の路地を旅する
「中上健次は、そこを「路地」と呼んだ
「路地」とは
被差別部落のことである」
著者は大阪府出身で、自らを部落出身とはっきり言う。
私も大阪府出身、部落問題は身近に感じている、
現在も確実に存在すると思う。
だが反面、これだけ住む場所や職業が自由に選べるように
なれば、存在しないのではないかと思うこともあるのだが、
事情を知らない無責任な発言かもしれない。
大阪では部落について語ることはタブー、だと思っていた
のだが、本書は見事にその考えを裏切ってしまった。
全国の「路地」をめぐりながら、「路地」が果たして
きた役割を明確にしていく。ある特定の職業に付き、社会に
必要とされながらも、差別されたきた過去。
それは今でも場所として存在しているのだが、
なんだかそれは観光地のようで、旧所名跡のようでもある。
「過去」にして、「読み物」に転化し、表舞台に引き出したのは
著者の功績かもしれない。
「「四足の動物は食べない」風習が一般的であった江戸時代を
通じて、古来より日本人は牛肉を食べ続けてきた。より正確
にいうなら、百姓や町人身分、下級武士の者たちは忌避して
食べなかったが、大名周辺と、最底辺の民であったかわただけ
は食べていた」
「ネパールではサルキと呼ばれるアウトカーストの者たちと、
一部の上位カーストの者たちだけは現在でも食べている」
「昔から「支配層に法律なし」と云われるが、古今東西、同じ
だろう」
時代の変革者がアウトローから生まれるのもうなづける
一文だ。
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疾走 上 (角川文庫)
こんなに本の世界に入り込んだことは無い、というぐらい、夢中になって読みました。『誰か一緒に生きてください』私と同じ中学生の少年が疾走した15年の生涯。凄くリアルな表現もしてあって、読むのに抵抗がある部分もあったけど、共感できる部分もたくさんありました。ラストの部分は思わず泣いてしまうほど感動しました。物語が大きく動くまで、『普通の少年の話だなぁ〜』と思いながら読んでいましたが、主人公の兄の犯した行動から、周りの環境も変わっていき、自分の人生まで狂ってしまう。同世代の読者として、ここまで共感できた作品は過去にありません。是非、読んでください。読んでみる価値はあります。
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枯木灘 (河出文庫 102A)
既に社会的評価の定まった本作ですが、自分なりの解釈を交え、レビューにしたいと思います。
一読のみの感想です、しかし、そこに再読したかのような感覚があったのが何故か不思議です。
実は本作、何度か読了まで挫折を重ねています。その文体には、ある種独善的とも言えるほどの
迫真性があり、特異な読力を要求されるからです。こうしたことは、近年の作風にはあり得ないものでしょう。
幸い、ネットに執筆当時のエッセイを見つたので、以下、一部抜粋します。
「ドストエフスキイの小説『罪と罰』を読んだのは高校時代だった、と思う。いや読んだのではなく、
読みかけて途中退屈し、後はとばし読みしたのは、である。それからしばらくして、私にはその
ドストエフスキイは、軽蔑と嘲笑の対象だった。(中略)よくこんなに退屈なものを冗長に書けるものだと、
感じ入り、また軽蔑した。文庫本を次々買って来て読み囓りはするが、冗長な文章につきあっているほど
暇じゃない、とほうり出した。実際、暇はなかった。聴きたいジャズが、朝から自分の耳の中で鳴っていたし、
借りていた部屋の外はペテルブルグではなく一千万の都会の朝だ」
ドフトエフスキーについては、私にとっても似たようなものですが、この「枯木灘」にも、今、同様の思いを抱きます。
この作品は、熊野という場の根拠に最善を恵まれたろう、作者による畢生の名作と評価されますが、その可能性を確かめる意味で、
自身の率直な感想を言いたいと思います。これには柄谷氏の評論などの影響もありますが、凡そそれは、一点に集約されます。
本作中、最も印象的な部分を引きます。
「フサは秋幸を連れて繁蔵と逢引した。まめを繁蔵がかみくだいて秋幸に食べさせた、と言った。いつの日か分からぬが、
映画に行き、秋幸がその画面の中のおどけた男の仕種が気味悪く早く帰ろうと言った。それがチャップリンだった、と後でわかった。
(中略)郁男は自殺した。美恵は気が触れた。秋幸一人、無傷だった。いや秋幸でさえ、ひとたびこの、父と父の子と、
母と母の子の家を出ると、無傷では済まされない。」(P136)
この小説は、中上健次の内面世界の劇です。内面化された熊野の地と血縁は、現実のそれとは別ものである筈です。
そこで中上健次少年にとってのチャップリンと言う他者が告白されます。専横な力の象徴としての父、その柵の下で、主人公、秋幸は、
発作的に兄弟を殺してしまい、その小説世界から逃れ、隠されてしまいます。終結にはそして、幼児性を象徴する徹が強調されてゆきます。
この小説は、中上健次という他者性そのものです。私は終止その人とその世界に突き放されたまま、それを読み終えました。
こんな小説を読んだことは、正直に言ってありません。小説自体が隣人そのものである様なものです。
[強烈なリアリティによる自己の寓話]と、言ってみてもよいでしょうか?多くの作家がこのような境遇に恵まれることはないでしょうし、
以降の日本文学は、この成果を巧みにスキップしてしまったようで、この頃の小説は、小説然として佇んでいる気がします。
「かくして、『枯木灘』という私の処女長篇は、ドストエフスキイという作家に反発しながら書いた。だが、いまひるがえってみると、
反発や軽蔑とは触発というものと同義である事に気づくのである。つまり、さながら敬虔なクリスチャンが聖書をめくり一節を読むように、
深夜、一人、ドストエフスキイを読んでいたように思えてくるのである」
嘗て作家のそうしたように、今、この小説を読み返す者のどれほどあるのか分かりません。
現実の全てである筈もない小説表現の担うべき分とは、ではその先にどんな梢を伸ばすべきなのか、柔らかな葉の表に日を撥ね得るのか、
「枯木灘」とは、寂しい碑銘にならないことを切に願います。
夢の力 (1981年) (角川文庫)
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赫い髪の女 [DVD]
多分牛込文化辺りで初めて観た時、あまりの唐突なラストのロールアップに椅子からズリ落ちました。あのタイミングは凄い!内容なんか皆忘れました。あのラストが私にとっての神代監督です。素晴らしい!