インゲボルク・バッハマン全詩集
バッハマンは20世紀に活躍したオーストリアの女流詩人です。同じく詩人のパウル・ツェラーンとの恋愛で有名のようです(私は、ツェラーンの名前はユダヤ系ドイツのノーベル賞詩人ネリー・ザックスとの交友で知り、バッハマンとの関係は今回初めて知りましたが)。
詩風の印象としては、ネリー・ザックスや、チリのノーベル賞詩人パブロ・ネルーダの初期の純粋詩と似ている感じがしました(ザックスとは交友があったようで、本作中にはザックスに捧げる詩が収録されています。また、高名なロシアの女流詩人アンナ・アフマートヴァに捧げる詩というのもありました)。バッハマンの作品は、詩の基本色として夜というか暗闇を連想させられるので、悲痛で見極めがたい、近寄りがたい感触がするのですが、よく読むとそこには人間の尊厳というものの希求、また何ものにも消されえぬ真実への信頼と執念とが、希望の星の厳しい祈りのように必死の光を放っています。
詩自体は難解で、聖書や神話中の人物やエピソードを別の表現で暗示していたり、バッハマン独特の視界や比喩表現で対象を表しているので、一読してすぐ意味が取れるということはまずないと言ってもいい位だと思いました。しかしそれでも彼女の詩を「何かいいな。読みたいな」としぶとく眼を凝らし耳を澄ませたくなるのは、難しいイメージの皮膚の下に、ナチス台頭下のオーストリアで詩人としての使命を放棄せずに言葉による戦いを貫いたバッハマンの、不屈のヒューマニズムの鼓動と熱い血潮を感じるからだと思います。
ナチスのプロパガンダに使われてしまうような、耳当たりの良い紋切り型の言葉や言い回しに対して強い警戒心と抵抗を感じ、独自の言語表現を追及したバッハマン。日本でも戦時中は、作家の<平和>という言葉さえもが軍のまた戦争の正当化に利用された事実があります。困難な状況の中で為された詩人の厳しく粘り強いペンの闘争に対して、深い敬意を感じずにはおれません。
ツェラーンとの往復書簡も出版されていますので、興味のあられる方はそちらもぜひ。