アンダーリポート (集英社文庫)
これはミステリではないですよね。
最後まで「何か」があるのか、ミスリーディングがあるのかと思いながら、
とうとう「そのまま」最初の想像のまま終わってしまったという印象です。
普通の小説としても、登場人物の心理描写など消化不良の感がありました。
ごめんなさい、どこがおもしろいのか正直よくわかりませんでした。
事の次第 (小学館文庫)
7つの連作短編が織りなす、複数の男女の静かに歪んだ日常の物語。
1997年に『バニシングポイント』の表題で単行本化されたものを、初出時のタイトルに戻して再刊行されたとの由。
文章の技巧派である佐藤正午の筆が紡ぎだす世界にとにかくどっぷり浸りたくて手にしました。ですから連作短編であることも知らず、それぞれの作品の間のつながりも見えぬまま頁を繰ったのです。
主人公たちは互いに見ず知らずの仲で登場し、そのまま深く切り結ぶこともないまま物語の中を歩んでいきます。彼らは時たま思わぬ接点を得るのですが、それは「袖触れ合う」程度の淡い関係です。
今年2011年に出版された佐藤正午の新作小説『ダンスホール (テーマ競作小説「死様」)』の端緒がそこにあるように思われます。その書評で私は「『六次の隔たり(Six Degrees of Separation)』が人に生きる力を与える物語」と書きました。
ただし『事の次第』のほうはむしろ、やはり六次の隔たりの仲にある男女が、どこか生きる気力を失っているようにも思えます。
「別に一刻も早く死にたいと思っているわけではないし、妻や子供たちを大切に思わないわけでもないのだが、彼は心のどこかに、この世にたいした未練があるわけではなく、自分はいつ死んでもかまわないのだという覚悟を眠らせているのかもしれない」(「寝るかもしれない」39頁)
「どうせ死ぬのなら一息に確実に死にたいもの、今日か明日というわけでもないんだけど、いつ死んでもいいと覚悟を決めているから、そのときが来ても迷わないように、毎日散歩がてら歩き回って適当な建物を探してるの」(「そのとき」75頁)
このように彼らは生の気力をたぎらせる場を日常の中に見出せずにいるのです。
しかし思えば、日々そうした気持ちをみなぎらせながら生きる人はそれほど多くはありません。人々はケの日を普段生き、運がよければハレの日をたまに迎える幸運にも恵まれる。うるさくもなく、また終わりのない日常を人々は倦むこともなく生きる毎日なのです。
そんな人々の姿がつまった7編に、妙に心惹かれる自分がいることに気づかされます。
ジャンプ (光文社文庫)
この作品も『Y』と同様に、「あのとき、ああしていれば」という誰もが思う後悔について、書かれています。
佐藤正午の「かっこつけ(キザ)文体」にはまれるかどうかがすべて。はまるひとはずっぽりはまるでしょう。私はそうでした。あと、もうひとつ。完全に男性、それも、私のような、「優柔不断、かつ、かっこつけ」男性向けのおはなしです。
作中に出てくるアブジンスキーというカクテルが飲みたくて仕方なくなり、バーで飲んでみました。調子にのって5杯。もちろん、前後不覚状態におちいりました。
読み終わったあと、男性は、自分の隣にいる女性(奥さんとか彼女とか)のことを少しだけ疑ってしまうかもしれません。
身の上話 (光文社文庫)
おもしろい。
おもしろいし、スピードもあり、企画性を感じる。
だからだろうか。
リアルなのにあまりにリアルではない殺人。
人の数だけ表現があり、観察力があるから、行き場を失う。
「おいおい、だからってどうしたらいいんだよ」
この本に出てくる登場人物同様、もしかするとそれ以上に「置き去りにされた」感が
最後の最後に手を振る。
あ、それが狙いだったのかもしれない。
ならば、まんまと導かれたんだ。この人の話を聞くばっかりだったから。
身の上話
普段私たちは知らず知らず枠に嵌って生きている。そうした方が居心地が良いから。
でも、ちょっとした事でその枠から外れて生きていくと世界は全く違ったものに見えてくる。
何が現実で真実なのか?
型に嵌って生きていくと、そんなことも考えなくなって一生を終えてしまうのかもしれないけれど、
何だか世界が狭いような気がする。
この本の主人公のように、考え無しに行動したことで、その「型」からどんどん外れていってしまう。
だけれど、それが不幸せなんだろうか? 井の中の蛙のように生きていくことが幸せといえるんだろうか?
そんなことを考えさせてくれる小説だと思います。何も自分が殺人まで犯さなくっても、小説の中で疑似体験できるんだから、そこをうまく利用すれば、自分の世界を見る目を変えることができる。
まぁ、自分も「柳に風」みたいなところがあって、はたから見れば「あぶなっかしい」ところがあるんだな、と思ったわけですけれど。