摘録 断腸亭日乗〈上〉 (岩波文庫)
「断腸亭日乗」は荷風の代表作です.日記該当の大正・昭和の世相を示す資料として一級ですが,荷風調を堪能できる文学としても私は気に入りました.荷風はこれを39歳の大正6(1917)年9月16日に起筆し,凄絶な死を遂げる日の前日,つまり昭和34(1959)年4月29日まで延々42年間の長きに亘って書き続けました.上巻は昭和11(1936)年12月30日までの分を摘録して収載します.編者による取捨があり,日記の日付全の記述を望む熱烈ファンには全集を薦めます.
奇異な書名です.日乗は日記の意ですが,断腸亭とは何か.日乗の昭和2年5月11日に断腸花の記載があり,花は秋海棠を指します.この花木は荷風旧宅の庭にあり,引っ越し先の麻布偏奇館に移植されました.彼は年来胃腸が弱く,度々掛かりつけの医者に診て貰っていますから,断腸亭は,秋海棠を好む胃腸の弱い男のことです.「断腸亭日乗」を逐次読み進めば彼の個性が歴然です.試みに大正7年正月7日を開けば次の記載があります.
山鳩飛来たりて庭を歩む.(中略)われはこの鳥の来るを見れば,殊更にさびしき今の身の上,訳もなく唯なつかしき心地して,或時は障子細目に引きあけ飽かず打ち眺むることもあり.或時は暮方の寒き庭に下り立ちて米粒パンの屑など投げ与ふることあれど決して人に馴れず,わが姿を見るや忽ち羽音鋭く飛去るなり.世の鳩の常には似ずその性偏屈にて群に孤立することを好むものと覚し.何ぞ我が生涯に似たるの甚だしきや.
同世代の文人に群れず,むしろ彼らを避け,出版界にも阿らず,孤高を貫く荷風は,要するに「決して人に馴れない」非常に気位の高い男でした.こういう人間は同職に嫌われます.それが彼の一面です.彼は晩年,自宅を訪れた山鳩の気迫を喪い,落魄します.しかしそれは後日談のこと故,今は措き,大正8年3月26日の日乗に眼をやれば,次の如し.
築地に蟄居してより筆意の如くならず,無聊甚だし.この日糊を煮て枕屏風に鴎外先生及び故人漱石翁の書簡を張りて娯しむ.
荷風は森鴎外と夏目漱石を敬愛しました.それを引用は示します.当時は屏風の下張りに不要な紙を用いましたが,鴎外・漱石の書簡は枕屏風の上張りにしようと,糊を煮ています.この日,原稿を書くにも筆は意のままに走らず,先輩二人の直筆を屏風に貼り込めて眺め,文豪の御利益に与ろうとしていました.これも「その性偏屈」な荷風の微笑ましき一面です.ついで,昭和3年12月31日に当節の文士を人間の屑とばかり盛んに誹謗した後,次の文章が続きます.
予生来身体強健ならず膂力なきが故に人と争い人を傷けしことなし.家に些少なれど恒産あるを以て金銭のことにて人に迷惑をかけたるはなし.女好きなれど処女を犯したることもなくまた道ならぬ恋をなしたる事もなし.五十年の生涯を顧みて夢見のわるい事一つも為したることもなし.これまた幸いなる身の上なりといふべし.(後略)
荷風は自己の好色を告白します.こんなことを公言して憚らない文学者は他にいるでしょうか.凄いですね.偽善者の対極です.彼に結婚の履歴はありますが,女が妻女となるともう落ち着きません.あれこれ身の回りを世話されるのがイヤなのです.マイペースで事が運ばないからでしょうが,このマイペース主義が臨終に至って自業自得の決着を促します.それも今は措き,精力未だ衰えない荷風は資金潤沢を幸いに芸者を囲い,カフェーや私娼窟に出入してプロの女に現を抜かしていました.これも彼の一面.そんな彼だからこそ「墨東綺譚」や「つゆのあとさき」等々の作品を後世に残しました.彼に関わった女は小説の材料でした.というか,小説を書くために女に接したようにも思われます.書き終わればその女は無用です.彼はエゴイストでした.可成りの金額を女に与えて別れ,次の女がまた現れるのを待ちます.女への情欲,これこそ荷風の小説の原動力だと新藤兼人は指摘していますが,当たらずとも遠からず.ならば色欲失せるにしたがい小説家荷風も霧散して当然です.
以上,荷風の素顔3面を本書から描き出しました.
DS図書館 世界名作&推理小説&怪談&文学
あ〜本が読みたいというときにさっと呼び出せるし、すごい手軽。
厚くて重い本持ち歩かなくていいし。
これだけの本を買うとなるとかなりお金かかるのですごく助かりました。
菊池寛 (ちくま日本文学 27)
菊池寛の短編集ともなると、
「恩讐の彼方に」「忠直卿行状記」「藤十郎の恋」といった定番代表作は絶対にはずすことはできません。
ですから、他の短編集とはちょっと違うよという「個性」を出そうとすれば、お馴染みの定番作以外に一体何を載せるかというところが腕の見せ所になってきます。
そんな、定番以外の作品選定のセンスが、このちくま文庫版は素晴らしい。
正攻法の感動作から、ユーモアたっぷりの小品まで。バラエティに富んだ品ぞろえです。
しかも、巻末の解説を執筆するのは、先だって亡くなったばかりの井上ひさし氏。
これが、いかにも井上氏らしいウィットに富んだ名エッセイになっており、これだけでも一読の価値があるというものです。
まさに、巻頭から巻末まで一分のスキなし。
初めて菊池寛を読む人には、私絶対、このちくま文庫版をすすめますね。
定番作はもちろん、文句のつけようがないほど素晴らしいのですが、それ以外のところで個人的におすすめなのが「島原心中」
検事の目を通して人間の業の深さに迫る異色作ですが、実は、文豪森鴎外にも、遊里での心中事件を扱った「心中」という傑作短編があるのです。
同じような題材を扱いながら、それぞれの小説から受ける感じはすごく違います。
菊池寛と森鴎外。二人の文人としての資質の違いが非常にはっきり見て取れて、私はとても興味深かったですね。
あと、もうひとつのおすすめは「弁財天の使い」
昔話のようなほのぼのとした物語を読み進み、結末に至ると、「やられたあ」とのけぞり、しばらく笑いが止まらない。そんな秀逸なオチを持った佳品です。
「うまい!」と、思わず膝を打つ、これほどの「やられた」感は、なかなか味わえるものではありません。
才人、菊池寛の手腕を、是非ご自分の目でお確かめ下さい。
関東大震災 (文春文庫)
歴史が好きな方、大勢いらっしゃると思います。しかしながら、
その大半が人物に焦点をあてて、ドラマ化して背景を伝えているものである
のに、歴史の出来事を記したものは殆ど見られません。
阪神大震災、中越地震、中越沖地震で、私たちは非常な衝撃を受けました。
以来、地震の代名詞ともいえる関東大震災に関して、自分の知識が数行しか
ないことに驚き、関係する書物を探していました。
日本史の教科書は、全ての事柄を伝えようとし、その一言々々は実に簡潔、
素晴らしいの一言に尽きると思います。但し、日本の災害についての記載が
殆どないのは歴史を学ぶ意味を損なっていると思います。
この関東大震災を手に取られた方々、是非三陸海岸大津波もお読みになって
下さい。この作者の描写力、取材力、判断力の凄さがお分かりいただけると
思います。決して大げさでも、書き漏らしがあるわけでもないのです。見事に
そのままが東日本大震災で再現されました。防災システムとか、防波堤とか、
耐震性などの言葉が浸透するこの現代にです。
詳細は他の方に譲りますが、この記録小説は今村助教授の予言が100年を
大まかな周期として東京地震が現れるというエピソードをプロローグとして、
幾多の事柄を精密、正確に描写し、何の感情もまじえていません。恐らく、
この記述は全て過少でも過大でもないのです。本当にそのままなんだと思います。
思い出してください。今年は2011年。1923年の関東大震災からもうすぐ
100年が経過するのです。関東大震災に先立って明治三陸大津波がありました。
人々は歴史を学び、学問をする。何故でしょうか。先人の経験を生かすため
です。先人の失敗を解析するためです。戦争を起こさなければならないほどの
経済危機を惹起した関東大震災から90年。今行動を起こすべきは何なのか。
必読の書です。
恩讐の彼方に・忠直卿行状記 他八篇 (岩波文庫)
これはすこぶるおもしろいよ。
10の短編からなり、強烈な話ばかり。
特に印象的だったのは、表題の2つと「蘭学事始」、「俊寛」。
「恩讐の彼方に」は、人を殺した男がただその罪を償うために二十年以上かけてトンネルを掘るという偉業を達成する話。
「忠直卿行状記」は、徳川家康の孫、忠直が主人公。自分のために家臣が次々と切腹していく。他人に理解されない苦しみを描いたある意味恐い話。
菊池寛は「真珠夫人」だけじゃないよ。歴史物が好きな人は楽しめると思う。