曽我部恵一
ニューシングル「White Tipi」を聴いたあとで、もう一度このファーストアルバムを聴くと、いかにこのアルバムがシンプルに作られているかが良くわかります。
無駄な物をそぎ落とした上で、『曽我部恵一』のど真ん中だけを静かに、隠すことなくさらけ出していて、裸の自分、素の自分を表現することがロックなら、間違いなく最高峰に位置するでしょうね。
ここに曽我部さんの最高の魔法をちりばめたらどんな音楽になるのか。
想像もつきませんが、セカンドが本当に待ち遠しいです。
キラキラ!
僕自身がこれを楽しめるかというと、ちっとも楽しめないのだけれど、
それに、
これが音としてカッコいいとか、今鳴らされる音はこれだ、って感じでも全然ないのだけれど、
7.チワワちゃん を聴いて、ああ、これは、僕らがこどもたちに何を伝えられるか、っていうことなのだと気づき、涙が出てくる自分がいて。
親でもあり、リスナーでもあるあなたなら、何かを感じられるかも。
おはよう
ランデブーバンド名義の作品。
3rd以降のガレージロック路線から遠くはなれて、フォークやジャズの匂いのするスローでメロウなアルバム。
本人はヴァンモリソンのアストラルウィークスやファラオサンダースなんかを意識していたようですが、まあ分かるような分かんないような。
1曲目「女たち」の出だしでやられてしまう。〈マリーは言った 花があればいい、と〉←この「、と」の溜めっぷりでやられてしまう。いきなり70年代にひきずりこまれるような感覚。
ああ、これは名盤に違いないと確信する。
まずそれまでの割といろんなタイプの曲が混在していたアルバムに比べて統一感があって聴きやすい。また音質がアナログっぽくギターやサックスの音が丸っこく艶っぽいのだけど
そこにソロ転向以降、酷使されささくれ立ち、かつての瑞々しさを失ってしまった(ともっぱら評判の)曽我部の声がとても相性が良い。
柔らかなビロードの絨毯の上を、あの声が囁くように走るのである。それはもう良いに決まっているのだ。曲がいいのはいうまでもなく。
というわけで夜一人で酒なんか飲みながら聴くには最高のアルバムなのではないかと。
おそらく曽我部恵一に本当に求められているのはこういうアルバムであるだろうし、本人もそれは自覚しているのではないか。
しかしそんなことは気にせず彼は今後も黒のレスポールを歪ませて声をはりあげるんだろうな。ああ、ちょと残念。
曽我部恵一BAND
冒頭曲“ソング・フォー・シェルター”から、言葉が溢れ出て止まらない。このアルバムは、言葉のアルバムだ。最近で言うと、andymoriの『ファンファーレと熱狂』に匹敵する、鋭くも優れた言葉でいっぱいのアルバムだ。曽我部には言いたいことがありすぎた。そして、全てを吐き出した結果、このアルバムはトータル15曲70分の大作になった。
しかし、このアルバムでは、曽我部は明確なアジテーションはしない。それでも、彼が紡ぎ出す言葉には怒りや悲しみがべっとりと貼り付いているのが分かる。それは“永い夜”のような激しい勢いを持つものではなく、どこか失意や諦念を伴ったものだ。僕は、何となくサニーデイの『24時』を思い出した。が、今は『24時』が出た世紀末とは違う。モラトリアムはとっくに終わり、色々なものがねじれて壊れつつある。もう何か全然違う。
新世紀の始まりあたりから、誰もが決定的な違和感をどこかに抱えたまま、本音をしまい込んで無機質に過ごしている。そんな今という時代の歪みは、さきの震災でも浮き彫りになった。それでも僕達は何もしない。さらに大きくなった違和感と共に毎日をやり過ごしているだけ。人も、社会も、どうにもならない。でも、曽我部みたいに、僕達の代わりに言葉を吐き出してくれる表現者がいる。そのことに僕は、ほんの少しだけ安堵する。
P・T・A! ~ピストルズ・トリビュート・アンセム~
参加アーティストがピストルズからの影響をどのように
かいくぐって来たのかが感じられる一枚。
ピストルズ以降数多のパンクごっこが有名無名に限らず現れて来たのだろうが
このアルバムに登場するアーティストたちは、パンクを自分のものとして見事に体現している。
わたしは特にEMIの洒落っ気に脱帽。