雷の波涛 満州国演義7 (満州国演義 7)
昭和15年、ドイツがパリを制圧する。日本軍は北部仏印に武力進駐。大政翼賛会の発足。日独伊三国同盟。
昭和16年、日本軍は華北での治安強化を進める。ドイツのバルバロッサ作戦。日ソ中立条約。ドイツのソ連進攻。帝国国策要綱、関東軍特殊演習。南部仏印進駐。ABCD包囲網に対する戦争準備のための帝国国策遂行要領。尾崎秀美、ゾルゲ検挙。第三次近衛内閣総辞職と東条英機内閣。御前会議で開戦の決定。日本軍の英領マレー制圧の軍事行動開始と真珠湾攻撃。
昭和17年、そしてシンガポール陥落。
状況が煮詰まってくると、だれもが疑心暗鬼となる。度重なる政権交代に長引く不況。出口の見えない鬱屈が沸点に達したとき、思考停止に陥った世論は戦争へとなだれ込んでいく。
英米独ソ、そして中国の思惑。これに翻弄されるままの大日本帝国。リーダーを欠如した内閣、軍部により外交は混乱に終始し、マスコミの熱狂は国民を対米戦争へと駆り立てる。
船戸は小説家にこそ許されているはずのあざとい史実の改変や通説の新解釈を意図的に回避している。ただただ通説を丹念に追う姿勢を崩さない。整然と史実をとらえながらも、驚くべき筆圧で歴史をドラマティックに展開してみせる。
わたしらの年代なら、太平洋戦争へ向けて、秘話とか言われる通説も含めた断片的知識はある。だがそれは個々のエピソードの積み上げにしか過ぎなかった。いまさら恥ずかしいことだが、数々の断片が一貫した流れの中で浮彫りされた全体像を、わたしはこの小説で初めて把握することができたことになる。
このところいささか退屈気味の大長編だったが、活を入れられた心地がして、とにかく読み応えのある第7巻だった。間もなく終戦の日を迎える今、本書を読むには絶好のタイミングだ。
目下のわが国の末期的政治状況を重ね合わせれば、なおさらである。
引き続き、敷島四兄弟の見聞としてこの複雑な国際・国内情勢が詳細に語られる。
そして彼らが体験するのは侵攻第一線の血なまぐさい現実である。
満州国国務院の高級官僚・太郎は若い女との快楽におぼれ、妻の精神障害が重なり社会的生命は破滅寸前にある。五族協和、満州国建国の夢はとうに破綻した。ただ死に向かって身もだえする満州国そのものを象徴する人物として描かれる。太郎は弱みにつけこまれ、奉天特務中佐・間垣徳蔵よりある関東軍大尉を密殺する手引きを強要される。この大尉は対米開戦に踏み切れない近衛首相の暗殺をもくろむ人物なのだが、政治、軍部、特務機関に内在する複雑奇怪なもつれ合いがこのエピソードによく表れている。
映画会社「満映啓民」に勤務する四郎が取材した北満の地獄と呼ばれる売春・阿片窟「大観園」の描写が凄まじい。読み終えたばかりの皆川博子『双頭のバビロン』にも同様の風景描写があるが、両者の作風の違いには興味をそそられた。
満州開拓移民たちの悲惨は既刊で述べられている。ここでは「開拓女塾」という、わたしが全く知らなかった満州開拓政策の一環が紹介されている。余剰人口のはけ口として16〜24歳の東北出身の娘たち四十数人を集めた教育施設のようだ。名目は日本を代表する貞女に育て上げることにある。だが実態は、独身の開拓移民へ日本人の純血維持を目的とした強制的な花嫁・供給システムだ。醜い中年の男にまるで牛馬のようにあてがわれる娘を抱いてやりながら、四郎は「開拓民の妻として立派にお国のために尽くします」という悲痛を聞くのだ。ここでも戦争にある「真実」が語られている。
五里霧中のうちに軍部は南進へと舵をきる。英領インド、英領ビルマ、英領マレーにある反英勢力を組織化し、武器供与を供与する。仏領インドシナにおける反中国活動等、いくつもの帝国謀略機関が擬似的な独立運動支援を旗印に秘密裏の行動を展開していく。
巻頭の参考地図も中国北部から東アジア全域に拡大され、元馬賊の頭目・次郎と信望厚い武人の関東憲兵隊大尉・三郎は、日本軍の南進作戦に沿って満州から華南、香港、海南島、仏領インドシナそして英領マレーへと移動していく。彼らの軌跡上にこの侵略戦争の犠牲者となる人の群れがある。
ヨーロッパを追われ、救いをこの地に求めるユダヤ人組織。インド独立の遊撃隊として次郎が軍事訓練するインド人の婦女子たち。731部隊の人体実験用に供される白系ロシア人捕虜。ビルマ独立義勇軍作りに海南島で軍事訓練を受けるビルマ人の若者たち。長い歴史の中で漢人に支配されてきた中国周辺の少数民族。英領マレーのマレー人、インド人、中国人。ほとんどがわたしの知らない逸話なのだが、次郎、三郎の命がけの行動の中で、いくつものエピソードが戦慄のディテールで語られていく。これが迫真力をもって読者に伝わるのは、次郎・三郎が訪れる町・村・地域の情景、大国に対して歴史的に抱くそれぞれの民族感情が実にリアルに描写されているからである。船戸は膨大な資料を検証したに違いない。そして小説家としてのセンスも抜群にさえている。
太平洋戦争の開戦を語るには真珠湾攻撃が当たり前だと思うのだが、船戸はこれをしなかった。その直前のマレー上陸作戦を詳述したのだ。戦闘機対戦艦の戦いであった真珠湾攻撃とは異なり、シンガポール陥落までの道のりは敵味方血みどろの白兵戦であり、反日華僑に対する虐殺もあった。
マレー侵攻作戦をほとんど知らなかったわたしは7巻の三分の二あたりから釘づけになってしまった。なにせ「怪傑ハリマオ」という「正義の人」が実在していたなんてびっくりしてしまった。イギリス人捕虜を英雄的に描いた映画『戦場へかける橋』もこの作戦の延長にあるエピソードだった。
谷豊 日本人名大辞典より
「昭和時代前期の軍事諜報員。明治44年11月6日生まれ。虐殺された妹の復讐のためマレーで盗賊団にはいり、「ハリマオ」(マレー語で虎の意)とよばれる首領となる。太平洋戦争の初期、日本軍の諜報組織の一員としてイギリス軍に対しゲリラ活動を展開。昭和17年3月17日マラリアで死去するが、軍当局により英雄として宣伝された。32歳。福岡県出身。」
戦争と人間の狂気を直視した感性のエッセンスがダイナミックに描写された、この「雷の波濤」は全巻中白眉の出来栄えであるとして言い過ぎではない。
船戸与一氏は病気療養中と聞く。愛読者としてはただただ健康の回復を祈るばかりである。
新・雨月 上 ~戊辰戦役朧夜話~ (徳間文庫)
余りというか殆んど歴史小説は読まないのだが、船戸与一の作品ならば読まずにはいれない。長州藩の間諜・物部春介が木戸孝允の密命を受け、新政府軍の北進に暗躍し、元博徒の寅蔵、会津藩の梶原平馬が新政府軍に対抗して行く。あの『山猫の夏』のような船戸与一作品独特の味わいもあり、力強さを感じる歴史小説。