許されざる者 上
読後最初の感想は「またやられた…」。冷静に見れば例によって美男・美女による如何にもなメロドラマなのだが、にもかかわらず深い感動と悦びを禁じえないのは、最早神業とも言える著者一流の「表現者の企み」によるものか。巻末の見事な解説も必読!
許されざる者 [DVD]
ずいぶん昔、
取引先のおやじと話をしていて、
最近の若い女の子(20年前)の話になった。
「ちゃらちゃらして、
死ぬまでああなんですかね?」
と言うと、
「そんなことはないよ。
彼女たちは、いい人に出会えてないだけだよ」
と答えてくれた。
この人物の懐の深さには、
感服した。
同じことが、
このイーストウッドの「許されざる者」にも
描かれていると思う。
(明らかに本筋ではないが)
まだまだ撮り続けてほしい。
許されざる者 下
明治36年(1903年)海外で医師の研修を終え、熊野川河口の街「森宮」へ帰ってきた。“毒取ル槇”こと槇隆光は、貧しい者からは治療費を取らず、地元では尊敬されていた。森宮でも文明開化の余波を受け時代が大きく動き出そうとしていた。が、やがて日露戦争がおこり・・・本作でどうぞ。大逆事件に因む、実在の人物ほか多くの人々を登場させて、激動の時代を描いた歴史大河小説である。上下二巻と長いが、読み出は十分。
面白かった!
許されざる者 (上) (集英社文庫)
れいによって、とんちかんなことを書く。
この小説の書き出しは、こうだ。
あの日のことを忘れることはできない。私たちは港にいた。
「私たち」? この「私」は、いったい、誰なのだろうか? 謎は続く、「ふたつの虹」、「二重の虹」、これは、いったい、なんなんだ?
「虹」が「橋」のたとえだとすれば、ふたつの「橋」に思い至る。一つは、戦地で爆破した鉄橋、もう一つは、将来建設するかもしれない「橋」。ネガティヴな橋と、ポジティヴな橋。かつては機能した橋と、いつかは機能するかもしれない橋。過去と未来。……わからない。
まだある。登場人物の名前に、気のせいか、「中」が入っている場合が多い。「中谷」に「中森」、「堂本中」に「中子」に「浜中」……。別に、なんの意味もないのかもしれないのだが。これも、気のせいかもしれないが、「中」の字が頻出しているような気がする。
人は建物の中に入ってゆき、建物は自然の中に置かれる。
時計のある部屋はどの邸でも建物の中心部にある。
挿絵の影響で、〈時〉の扱われ方に注意がいった。時計が介在しない、時。大きい時計に、小さい時計(懐中時計)。じつに、多彩な登場ぶりだ。
槇と永野夫人は舞い落ちる花びらのゆくえを追っていた。一枚が、宙に迷って、ふっと静止するような瞬間がある。そのとき、ふたりは互いの瞳をみつめあった。
そのとき、不思議なことが起きた。槇と鳥子が、全く同時にほとんど無意識のうちにそれぞれの懐中時計を取り出すと、しばらくじっと文字盤に見入った。
〈時〉は、相手が誰であるかによって、違う流れ方をするのだろう。
日傘山の子供が、よかった。下巻でも、活躍するだろうか?
おどろき、を感じた文章を紹介する。
僕は地図上の淡路島をハサミで切り抜いて琵琶湖に嵌め込んでみました。ぴったり嵌りましたよ。
動いているのはこちらなのに、向こうから手招きしながら接近してくるように思える。
こういう文章にであうと、あるいは、と夢想してしまう。琵琶湖はもと陸地だった。しかし、淡路島に恋焦がれ、淡路島の姿を慕った陸地は、自らの体を陥没させ、その身に水をたたえたのではないか。さあ、この身に飛び込んできなさい、と言わんばかりに。
辻原氏の野心を、私は垣間見た気がする。
浄土とは、じつは、澄み切った目でみられたこの世のことなのです
思いっきり遠くへ出かけてみる。そして、世界に対する認識をあらたにして戻ってくる。すると展望がひらける。
辻原氏は、あるいは、私たち読者が小説の世界「の中に入ってゆ」くこと=「遠くへ出かけ」させることによって、「世界に対する認識をあらたにし」、「澄み切った目で」「浄土」を拝ませようと企んだのかもしれない。
槇が満州行きを決意するところで、上巻は終わった。槇は満州でなにを見るのだろう?