日本語ライセンス版 バッハ, J. S.: インヴェンションとシンフォニア/ブゾーニ版 Bach, J. S.: Inventionen und Sinfonien/B
ブゾーニが解釈した解釈版です。
バッハが指示していない強弱等が書かれています。
ブゾーニはバッハの曲の編曲者、演奏者として有名なので、原典版と併用して、ブゾーニの解釈と承知して使用するには、参考になるかもしれません。
装飾音は装飾記号が譜面化されていて、初心者には弾きやすいです。
特にシンフォニア2番のように片手でトリルを弾きながら同時に他の音を弾くようなところでは、合わせるタイミングも詳しく書かれていて参考になります。
(他の本でもこういう注意は解説に書かれているので、解説を読めばいいといえばいいのですが)
ブゾーニによる練習の注意や、曲ごとの練習目的、練習効果などの解説もなかなか参考になります。
しかし原典資料からはかけ離れた楽譜になっています。2声1番のように、トリルをモルデントに改変しているようなところもあります。
解説は楽譜の下段に、ドイツ語と日本語訳併記で幅を広くとって書かれています。
曲によってはページの半分以上が解説となっており、楽譜が読みにくいのが難点です。
インヴェンションは通常、全ての曲が見開き2ページで、譜めくりしないで済むようになっていますが(バッハの自筆譜もそうです)、この版は解説が多い曲では譜めくりをしなければなりません。
ブゾーニ: ピアノのためのトランスクリプションとパラフレーズ集
ベーゼンドルファーインペリアル使用、ということは
つまり例のシャコンヌのラストがオクターブ上がらないわけですね。
それだけでなく、Fantasia Contrapuntisticaへと発展する元となった大フーガや、
リストのメフィストワルツのブゾーニ版、
同じくリストのオルガン曲、アド・ノス・アド・サルタレム・ウンダムのピアノ編曲版、
ショパンによるバリエーションやカルメンファンタジー(ソナチネ6番)など、
編曲家としてのブゾーニの偉業を十二分に伝える内容です。
演奏もしっかりとした堅実な演奏で、
シャコンヌだけしかしらないけど安いからまあいいか……と買って、
他の曲も好きになれる、とても良心的なボックスです。
Busoni: Toccata and Fugue in d Minor and the Other Bach Transcriptions for Solo Piano
懐具合の寂しい人には親切なことに、パブリック・ドメインの書籍・スコアの廉価なリプリント版を数多く出してくれているDover Publications。評者もお世話になっています。まあ、最近ではIMSLPなどで電子化が進み、ネットで無料閲読出来るようになっているものも多いので、端末機の前でしか読めないという点を厭わなければ(評者は嫌だが)、そちらを利用する方が値段的にはずっとお得ではある。ただし、いずれにしても100年近くも前の版下や初版譜のコピーを使っているため、今ではすっかり定着したクリティカル・エディションとはほど遠い場合も少なくない。評者の所持する限りでも、『幻想交響曲』にはヴァインガルトナー、『トリスタンとイゾルデ』にはヘルマン・レーヴィの筆が入るなどで、原典版にはない繰り返しや表情、指示が頻出する。その辺に神経質な人は要注意だが、今これらを演奏したら却って面白いかもと思ったりもする。
それで本スコアだが、現代でも人気がなくはないものの、原典尊重派からの批判も未だ根強く、いささか時代遅れに見られないこともない(まさに「そこが却って面白い」という人も最近は増えてきたが)ブゾーニによるバッハ編曲集。この種のトランスクリプションに限らず、バッハ作品の考訂(という語が「更訂」「校訂」ないし「改訂」よりも意味として正確だと思う)についてもブゾーニ(に限らないが)批判派の言い分は2点に集約されるようで、曰く、彼の大時代的な表情付けはバッハの様式・本質と相容れない(趣味の不一致)、演奏効果のために原曲の持ち味やポリフォニーの透明感を犠牲にしている(原作を自己表現の素材として扱う不遜さ)、というもの。補足して、バッハは楽器や音色、情緒的な表現といった経験性から解放された抽象的・禁欲的な音楽なのであり、そこが素晴らしいのだなどと、『フーガの技法』を例に挙げて語られたりする。で、そういう人たちが高く評価する演奏家がグレン・グールド、ということも多い。
しかしグールドの演奏にしても、例えば自由な即興を許した作曲当時の演奏習慣であるとか、あるいは良心的に想像力を働かせた結果であることを最大限考慮に入れたとしても、バッハの音楽には本来あり得ないテンポや表情付け、曲順の変更、何よりピアノの性能を活かしたポリフォニーの段階的強調(各声部間の陰影付け)と、果たしてバッハの作曲意図に飽くまで忠実なのか、現代的な演奏「効果」を配慮していないかというところまでは断言出来ないと思うし、そもそもグールドにせよ現代のオーセンティックな古楽プレイヤーにせよ、もし彼らの演奏をスコアの上に記号や文字で余すところなく記録していけば、ブゾーニどころではない真っ黒な譜面になるはずで、この辺り、自らの演奏解釈を世に広めるためのメディアとして専ら楽譜(の考訂)を頼る他なかった時代の音楽家の苦衷を考える必要がある。
ピアニストとしてのブゾーニは、例えばルービンシュタインが「彼のバッハ演奏はグールドよりよっぽどグールドらしい、オーセンティックなものだった」と(大意だが)語っていたように記憶するし、そもそもグールド自身がデビュー当時は「ブゾーニの再来」といった評され方をしていたりと、実際に聴いてみると意外に現代的な解釈を行っていたらしいことが想像される(録音も残っているようだが評者は未聴)。この、いかにもくどいように見える(よく見ると実はさほどでもない)本スコアも、弾き手次第では十分に透明で清潔な音楽が創造可能なように思うのだが、どうだろう。
大体、抽象や禁欲といった、音楽的には実は曖昧な言葉で評されるスコア=紙の上での構造的側面に限らず、オルガン曲や『マタイ受難曲』に見る空間性、同じく『マタイ』での縦笛・横笛の使い分けといった音響・音色への配慮もバッハの音楽の大きなポイント。ブゾーニの、ペダルやオクターヴを多用したオルガン曲のトランスクリプションにしても、単に面白がったり際物視したりするのではなく、オルガンのないところで原曲の立体感を極力忠実に再現しようとした努力の結果として、なぜこのように書いたかに思いをいたしつつ弾いたり聴いたりするのが肝心なのではないか(ペダルについては、演奏者がブゾーニの指定以上に勝手に使い過ぎているという場合が多い。毒食らわば皿までというわけか)。「音楽作品は原理的にすべからくトランスクリプション」「原典版は作曲家の頭の中にしか存在しない」というブゾーニの音楽哲学も、編曲についてだけに止まらない、無視出来ない重みがあるように思う。
いずれにしても、グールドを全面的に支持する一方でブゾーニのトランスクリプションには反射的に拒絶反応を示すのは矛盾ではないのか、両者がバッハに取っている距離は案外同程度に近く、方向性も似通っているのではというのが評者の意見。あえて極端に対比させればブゾーニはロマン的・唯心的な19世紀趣味、グールドは即物的・唯物的な20世紀趣味。また、前者は楽譜、後者は録音によって自らの解釈を後世に問うただけという、要するに趣味ないしメディアの問題に過ぎないというのは、果たして暴論だろうか。