ほんっとに、細部にまで神経の行き届いた素晴らしい、最高の演奏です!!これしか言えませんよ、まさに。
私は声楽を勉強中の学生ですが、これを聞いてドイツリートの研究を卒論のテーマ・卒業コンサートのテーマに決めました。
この映画には、石や植物の輪郭をたどる指先、成長した妹の顔を確かめる手、そして手のひらから手のひらへと触れ合いながら物が渡されていくという感覚・触覚による対話が細かに描かれている。それはあえて視覚によっては叶わないからからこその、内部の目でのみ確認される相互の親愛を呼び起こすような情景でもあるように感じられる。
ぼくは一時、よく池を泳ぐ水鳥を眺めていたことがある。鳥の羽、鳥の首からくちばしに、ただただ注ぐ自らの「視線」が、「触覚」と非常に近いものに感じられる瞬間があることに気がついたことがある。視線に入ることと、視線を注ぐ(見つめる)ことは、同じ「見える」ということであっても、かなり違う意味を持つことだ。
少年は盲目のために偏見にさらされがちである。父親は愛してはいながらも、それを怖れて家族の中に閉じ込めたがる。
また念願の来たる自身の再婚のために(再婚に不利になるという思いで)、モハマドを、自分の人生からなんとか、しかるべき落ち着き場所に早急に片付けたいという思いにも襲われている。モハマドのためだと言いつつ、モハマドの祖母である母に「自分のためだろう」と冷たい視線を投げかけられる。
だからと言って、けしてこの父親を責めるようには描かれていない。
むしろ描かれる厳しい現実と、父親の人生に折に触れ現れる不吉なシンボルに案内されるような不運な展開に同情をも禁じ得ない。
やがて最大の悲劇と試練が二人を最後に襲うが、この物語は、父親が、もうモハマドを全的に、徹底して愛することへの紛れない転換点として用意された神話のようであったことに気づかされる。
前作から比較すれば、やや運命的で悲劇性が強い印象を感じる所もあるけれど、だからこそともいうべきか、美しい自然の映像のなかで静かに語られる物語が、深い神話的印象をも残す「愛を現した」のは忘れてはならない。
8番「千人の交響曲」の第2部は、LPでは3面にわたりました。
ちょうど面の変わり目と思われる箇所(2カ所)で、不自然な音の空白があります。
マスタリングの問題だと思いますが、
全体の流れ、演奏が素晴らしいだけに、非常に気になります。
また、この巨大な楽章が、1つのトラックにまとめられているのも残念なところ。
名演を廉価で提供してくださるのは嬉しい限りなのですが、
とはいっても、もう少し手をかけてほしかった。
それにしても、この重厚壮大な作品群を、
深みと高揚感を保持しつつ、疲れさせずに聞かせるノイマンて、
やはり巨匠ですね。
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