青白く長い顔をし、書生然とした吉田松陰は、我々の想像を超えた人格的影響力を持っていた。
そのことは、彼が晩年長州の野山獄に入れられたときも、
余人が手に余す犯罪者達に、毎日誰かが先生となり勉強しようという彼の提案が受け入れられるのみならず、
終いには凶悪犯が松蔭の人格に触れ、「松蔭先生」と呼び出すところからも、
よくわかるのである。
一方で松下村塾の弟子達は、松蔭の偉大さがよくわからず、久坂玄瑞などは松蔭の盟友である熊本の宮部鼎蔵を訪れ
「松蔭先生は本当に人材なのでしょうか?」と尋ね、宮部に「小僧!おまえなんかに松蔭君の偉さがわかるわけがないわ!」と一喝されて帰ってきたりしている。
松蔭が処刑後、弟子達は各々がもらった松蔭からの手紙を持ち寄り、初めて彼らは師匠の考えの全体像を知る。
その弟子の中で、天衣無縫で痛快ともいえる活躍をするのが、高杉晋作である。
真実を知り怒髪天を突いた彼は、松蔭が罪人として粗末に葬られた墓を掘り起こし、
その骨を首から提げ、槍を持って一騎江戸城に入り、高々と復讐の宣言をし、疾風のごとく去ってみたり、京の神社での儀式に天皇家の後を進行する将軍以下幕臣らに向かって、町人の格好をして「いよっ!征夷大将軍!」と大音声を放って、幕臣達の悔し涙を流させたりもする。
彼の指揮する長州軍は見事に幕府軍を打ち破る。
その軍の一翼を担ったのが「幕府や藩を相手にしたのが一生の不覚。向後は民を頼みとする」との松蔭の言葉から、
晋作が作った百姓や相撲取りで構成された「奇兵隊」であった。
晋作は27の時、有名な「おもしろきこともなき世をおもしろく」との辞世の句を残して肺結核で死ぬが、その後幕府は遂に倒れる。
何度読んでも胸を突かれる師弟の物語である。
幕末の偉人の言葉を並べて、解説をしているのだが、それが軽い口調で、逆に親しみを持てた。並べる順番も歴史に沿っているわけではなく、工夫されているところに好感が持てた。ただ、名言に至るまでの過程、その裏に潜んでいる意図に関して、もう少し突っ込んだ解説があれば、もっと感動できた。
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