デス・ゾーン8848M―エヴェレスト大量遭難の真実
今まで読みそびれていたジョン・クラカワーの「空へ」を読んだのち、この本へたどり着いた。
共著のデウォルトの文章がメインで、キーパーソンであるブクレーエフの文章は想像したよりやや少ない。
本全体の「読ませ方」「魅せ方」と取材能力それ自体は「空へ」の方が上だし、デウォルトその人がどこまで踏み込んだ取材をしたのか、匿名の人が散見するのが気になった。
だが、読むうち私はブクレーエフに感情移入していた。私自身は結果として、彼は顧客たちの側についていたほうが良かったのかも、と思っている。理由はごく単純で、人はその場にいなかった人を悪者にしたがるからだ。居合わせた人を面と向かって非難できる人は少ないし、結果更に多くの顧客が死んだとしても、遭難中は同じ時間を共有する方が安心なのだろう(彼の下山を許可したスコット・フィッシャーその人が遭難死したので、マウンテン・マッドネス社の広報担当ジェイン・ブロウメットの証言が一番近い裏付けになっている)。勿論8800mの世界がそんなに単純であるわけはないし、この考え方は間違っているほうが本当はずっと健全だ。
にも関わらず、ブクレーエフの人柄の良さは素直に伝わってくる。彼の中では、ソビエト崩壊後も登山を続けられるイコール「とても恵まれたこと」という思いが強かったようで、スコット・フィッシャーにスカウトされるまでは、登山を終えたネパールからカザフスタンに戻るために、装具を売って旅費にするという窮迫ぶりだった。それでも登山が本来自己責任であるというポリシーを変えることはなく(むしろ変えようがない)、目立ちたくて目立ってしまったというわけでもない。
「人が山に合わせるのではなく、山を人に合わせなければならない」というのは、戸惑いの極みだったろう。そのような中でも「味は単調でもシェルパの食事は高所登山向きだ」といった、登山家らしい指摘もしている。
※読んでいて気になったことをもう一つあげると、フィッシャーはかなり気前の良い人で、事情によっては参加費用を割り引いてあげることもあった。だが、それが無線機などのコストを削る遠因になったのかも知れない。例えブクレーエフへの手当を削ってでも、その辺はきっちり押さえるべきだったろう(ちなみに生き残ったレーネ・ギャメルガードもデンマークでのスポンサー集めが上手くいかず、費用の一部は未払いだった)。
だが、顧客の中には彼のことを「トリー」と愛称で呼んでくれる人もいた。この人は後にブクレーエフが主にアメリカで非難を受けた時にも彼を励ましてくれていて、そのくだりには自分のことのようにほっとしてしまう。そして、悲しみのあまり眠れぬ日々が続いた事も、正直に記されている。
亡くなる半年前、彼はインドネシア軍のエヴェレスト登頂に、相談役としてかかわることとなった。士気高く体力もあるが雪山を知らない、そんな隊員たちを「とにかく無事に帰す」ための彼の努力を読んでいると、この人にもっと生きて欲しかったという思いが増してくる。本人も自分は「ガイド」には不向きだとはっきり認めているが、ひとりでも犠牲者を減らすための指導こそが、この人には向いていたようだ。
インドネシア軍のメンバーは(全員ではなかったが)無事登頂に成功し、帰還途中で彼は難波康子さんの遺品を回収する。
その後の巡りあいは、神様のなした事だった。
ほぞ
最近は音楽に心揺さぶられることが少なくなり、邦楽ロックも食傷気味だったのだけれど、このClimb The Mindの2ndアルバムはいい具合に自分の空白にはまってくれた。
一聴しただけではよくわからなかったのだが、彼らの音楽はありふれているギターロックとは一線を画しているように思える。ジャンルでいうとエモ?オルタナ?ポストロック?どれにも当てはまりそうで、当てはまらなそうでもある。独自性の強いメロ、詩、声、楽器が日常の風景を切り取り、それを目の前にただ提示する。かなり聴く側に委ねられる型の音楽。
歌詞はポジティブでもネガティブでもなく、あるがままの日常を描く。
Voは歌うというよりも詩を丁寧に朗読しているといった感じ。新鮮だ。
音楽で、ここまで歌詩が自分の中にじんわりと染み込んできたものは久々。
これはもう音楽というより詩や文学に近いかもしれない。
最近の邦楽ロックに飽きている人に聞いていただきたい音楽。気になったら、是非試聴を。おススメです。