砂の上の植物群 (新潮文庫)
高校時代に何故か吉行文学に触れ、不思議な魅力を感じました。未知の世界、感覚。印象に残った作品がいくつかあり、また拝読できたことに感謝。
自分も年齢を経て、また異なる印象を受けました。いつ読んでも新鮮。繊細な氏の感性、表現力は、永遠に私の心の琴線に触れるかと思います。
娼婦の部屋・不意の出来事 (新潮文庫)
昭和30年生まれの僕にとっても吉行淳之介氏は、ひと時代前の作家である。
短編の名手という話も聞く。表題作『娼婦の部屋』は完成度から言っても
吉行短編の代表作なのだそうだが、僕は心魅かれない。
『出口』は幻想的といえば幻想的だ。
ある場所に自ら進んで、あるいは半ば強制的に閉じこめられた男
(原稿が書けず缶詰めにされた吉行自身とも読める)
そこににおいが漂う。
無機質、濃い蕎麦つゆ、親子丼、天ぷら、鰻の蒲焼き、焼いた豚肉
鰻の肝、鰻の血、生の肝、
そして鰻屋の兄妹は近親相姦を噂されている。
そういう小説ですが、なにか?
若い読者のための短編小説案内 (文春文庫)
第三の新人と呼ばれる人たちの短編小説の村上春樹の視点によっての読書案内。
精読というものはとても難しいものです。一読しただけでは全体像すら掴めないし、何度読んでもそのたびごとに自分の心境には変化があるものです。だから、この本を読んでこういうことなのか、と思ってはいけないんだと思います。ただこういう見方、視点もあるんだな、と思ったほうがいいと思います。
でも、あの村上春樹が言っていることなのでどうしても納得せざるを得ないところがありますね。読み方が難しい本だと思いました。
女ぎらい――ニッポンのミソジニー
上野 千鶴子の近刊 ニッポンのミソジニーを読みました。強い衝撃で近頃読んだどんな本よりも圧倒されました。最近の上野千鶴子は老いとその生き方をテーマに取り上げている傾向があると思っていましたが、本書では、著者本来のテーマである、ジェンター・フェミニズムを正面から取り上げています。社会学者は本書では「ミソジニー」と、「ホモソーシャル」という用語で性的二元性かなる現代社会のしくみを明快に論じています。
男達が性的関係を含まない集団「ホモソーシャル」を形成してそのなかでの自分達だけの世界を作り上げ、「おぬし、できるな」とお互いに認め合って連帯し、そのなかでランク付けをします。それのグループに意図的に入らないか、脱落せざるを得なかった残りの男や、全ての女達はグループから排除されます。それでも、排除した女達と性的関係を結ばざるを得ないたの自己矛盾から、男は「女性嫌悪」に陥ります。一方、女達はある年代から、自分が男である「主体」ではなく、男によって評価を受ける「客体」としての存在である女に属していることを、思い知らされ、「自己嫌悪」に陥ります。
本書の最終部分「ミソジニーは超えられるか」で、上野は「自分自身はミソジニーからは完全に自由だが、周囲の社会がそうでないから社会変革のために闘う人がいるとしたら、フェミニズムはもはや「自己解放の思想」ではなく、「社会変革の」ツールになるだけで、正義の押しつけであろう。ミソジニーはそれを知っている人からしか判定されないためである。」と論じています。私が永年抱えてきた疑問が、これでやっと氷解しました。フェミニズム=ジェンダー論とは男女を問わず自分と正しく認識して、性別やそれに伴って自明とされてきた多くの社会的桎梏から自分を解放していくための武器だったのです。
著者は男に対しても「ミソジニーを超える方法はたったひとつしかない。身体と身体性の支配者=主体者であることを止めることだ。そして身体性につながる性、妊娠、出産、子育てを女の領域と見なすのをやめることだ。」と応援し、方向を示します。
数10年前の高校生代、精神的な面でも先頭を行っていた級友の女性徒達が、次第に男に媚び、関心を持ってもらうよう変わっていく様をみて、「良妻賢母への道をあきらめて受け入れずにもう一度闘ってみること」という文を書いたことがありました。そのころからのリブ、フェミニズム、ジェンダー論は関心を持って接してきました。
でも、この本は自分でも意識していないか、あるいは考えくないため無意識に避けていた、自分のなかの深淵にある醜い欲望やミゾジニーを、白日のもとに引き出して見せてくれます。あるいは自分で引き出す手助けをしてくれます。その結果、自分の拠り所としてきたものを捨てる必要が生じるかもしれません。恐ろしい本でした。
私は理系に属していますが、社会科学の本当の凄さに思いしらされました。一回では全貌を理解できませんので、再読して「ミソジニーやホモソーシャル」である、自分の深部まで降りてみたいと考えました。
原色の街・驟雨 (新潮文庫)
「原色の街」「驟雨」で彼が描くところの、純粋さを残す娼婦というのは大きな矛盾をはらんだ存在で、魅力的かつ夢物語的だ。肉体の売買に関わらず、他者とのコミュニケーション願望というのがあるのは確かだが、夢は時間が経てば消えてしまう。それだけに結末は、男女どちらの立場であっても切なくてやりきれない。
「薔薇販売人」まずタイトルが刺激的だ。そして物語はまるで演劇を見るようだ。小道具も揃っているし、冒頭の住宅の茶の間を庭先からのぞき込むシーンをセットとした舞台にぴったりだ。
「夏の休暇」は短編映画といった趣だ。気まぐれな若い父親に引き連れられた息子と、そこに絡んでくる女性の関係が、夏の海辺を舞台として演じられている。ノイズの入った色褪せた画面で見る、映画のシーンのようだ。
「漂う部屋」ではサナトリウムという閉じた社会で、それぞれに肉体的な症状・制限がある者たちが、精神的にも症状や制限がかかったような状態になっている様子がもの悲しく、ときに滑稽だ。
著名な表題作のみならず、吉行氏のいろいろな側面を感じられる作品集だ。特に「薔薇販売人」「夏の休暇」は映像に訴えるものがあって気に入った。