内田魯庵山脈―「失われた日本人」発掘
この本は講談社『群像』誌の編集長だった渡辺勝夫氏から幕末・維新・明治・大正・昭和初期を一貫して流れる日本近代の知の最良の部分を描き出してくれないかと乞われて95年から98年まで「内田魯庵の不思議ー<失われた日本>発掘」と題して連載されたものに加筆して再構成したものである。連載が終了しても出版の目途が立たずに2年の月日が流れ、晶文社編集部によって何とか出版にこぎつけた。本の内容的には『「挫折」の昭和史』『『敗者」の精神史』(岩波書店)とともに「日本近代史の見えない部分」を描く三部作の最後の一冊であるといえる。
著者は視点を一人に当てることで、時代への展望も示せるような人物がいないかと考え、自分自身にどこか通じるところがあるという意味で、政治・経済もさることながら何より書物の運命に心を寄せたうえで世界を観察し続けた人物として、内田魯庵に焦点を絞る。魯庵は時代の中をそれぞれの主題に立ち向かいながら生き、しかもその時代に取り込まれることなく自己を実現していった。その様態を描くことにこの本は成功したが、しかしあまりに分厚い書物になってしまった。
体制側の大学の学問が専門化の過程をたどり、結果としてヒエラルキー化、排除に基づく孤立化という道をたどるその中で、排除された人々こそが精神の自由を有し、物に支配されるのではなく、物を通して自らの抱き持つ潜在的可能性を開発していった人々だった。彼らはがんじがらめに藩閥政府が作り出した日常生活の現実の中から隙間を見つけて外へ出て、そこに重力圏を脱した現実を作り出した。その上で隙間を拡大し、数を増やして内と外の相互交通の可能性を増大させネットワークを作り出していった。
内田魯庵山脈(上)――〈失われた日本人〉発掘 (岩波現代文庫)
「藩閥政府のつくりあげた上下のヒエラルキーに基づく官のアカデミーに対するもう一つの選択」(95頁)を実践した、集古会の人々そして内田魯庵をはじめとする「近代化の中で消えた粋で知的な日本人」(184頁)たちの印象的な物語。
「函底に埋もれたと見られる内田魯庵を拾い上げて、その埃を払ってみると、現われてくるのは、魯庵が密かに生きて、我々の時代には全く見失われてしまっているもう一つの世界である。もちろん、その世界をして我々の前に姿を現わさしめるためには読者の側にも忍耐が必要であるし、文学とか近代とかいったおおまかな概念規定はしばらくの間括弧に入れておいていただきたい。我々の意図するのは、教科書的な意味での日本の近代とやや外れたところに存在した知の原郷というものを訪ねあてることにある。この知のシャングリラは、ある日というより一九三〇年代に入って忽然と消えてしまったのであるが、その時期以前には、よい先達を得れば垣間見ることのできるものであった」(6頁)。
「とどのつまり、藩閥政府が築き上げようとしている、権力を中央に集め、薩長を中心とした少数の集団が情報を集め、情報そのものも、それを管理する人間たちも、役に立つ・立たぬの二元的価値を基に階層化しようとする統治機構が生み出すリアリティをは別の、知識・情報を自らの手で生み出し、それらを育て、自ら管理し、頒ち合いながら作り上げる、今流行の言葉でいえばオルターナティヴ(もう一つの選択)の現実、リアリティといえるものである」(66〜67頁)。
「文明の進んだ富める国には、必ずこの遊民がある」(95頁)。
「明治大正において、高等遊民とは、とりもなおさず藩閥政府が原則として排除した旧幕臣、または藩閥政府の重力圏の外に生きることを選んだ人々である」(96頁)。
本文庫版の発売と同時に読み進め、一年半ほどをかけて漸く読了した。微細にして博捜な描写は、読み飛ばすことを許さない緻密さに満ちている。しかし、苦行(?)の後には、読後の充実感に加え、新たに自らの視野が一気に拡がったかの如き充足感が待っていた。
新編 思い出す人々 (岩波文庫)
名著「二葉亭四迷の一生」をはじめ、「二葉亭余談」「二葉亭追録」など、私のような二葉亭ファンには
有難い文章が収録されています。他にも「硯友社の勃興と道程」「齋藤緑雨」「淡島椿岳」「鴎外博士の
追憶」など楽しく読めます。
食道楽の二葉亭と食べ物にはまるで無頓着な魯庵、死の床にありながら大金をだして大辞典を買った
紅葉、あぐらをかくのは田舎者のする事だとして膝をくずさなかった緑雨、魯庵が語るこれらのエピソード
は些事に過ぎませんが、彼らの作品を愛読する者にとっては興味深いものです。
書店で発見してすぐさま購入し、その日のうちに読了して、今は「二葉亭四迷の一生」をもう一度読んで
いる所です。やはり面白い。熟読に堪える一冊だと思います。