砂の城
本書は明治三陸大津波(1896年)を題材にした小説で、津波で大災害をこうむった現地の状況をつぶさに取材した塚本孝夫という記者を描いたもの。塚本記者が著した『大海嘯被害録』が紹介されており、2008年に出版された。
この本を読んだのは2010年秋のことだった。あまり厚い本ではなく、文体・内容も一定レベルで、ベストセラーにはならずとも、風化しつつある大災害をいま一度啓発する意味でも、結構な話題をさらった。読み終えて抱いた感想は、こんなこともあったのか、渾身のルポを書き残したこの塚本という記者は、不本意な人生だったんだな、といったところ。なんでこう日本は、本当に才能に恵まれた人物を冷遇し、要領ばかりよいつまらぬ人物が出世する仕組みになってるんだろう。その一方で、三陸地方を襲った大津波の現場と状況を記録に残し、後世へ伝え、教訓とすることの大切さをあらためて知った。
本書は『大海嘯被害録』という一級クラスの資料が出ていることでマスコミにも紹介され、ある程度の話題を呼んだが、とくに売れることもなく、膨大な情報の渦に飲みこまれ、書籍の大海原に沈んでいった。
2008年に出版され、その3年後の2011年3月11日に再現する大海嘯――東北関東大震災には、なんの意味ももたらさなかったとは思いたくないが、テレビ・新聞の報道を目にして、途方もないやり切れなさと絶望感を感じているところである。
陸前高田、ほぼ壊滅。
陸前高田市と、となりの大船渡市は、6年前までオフィスがあった場所で、足かけ20年近くにわたって、月一回の定期的な出張に出かけていた。細かい住宅地も山間の集落もつぶさに歩いていたので、地元の人並みに事情に詳しい自信があった。テレビで米崎町とか気仙町とか聞くたび、すぐさま脳裏に地形と光景が浮かんでくる。ヘリコプターからの映像を見ても、あれは国道45号だな、あれは気仙大橋だな、あれは高田松原だなとわかる。
それが、泥とガレキの荒野に変わり果ててしまった。友だちや親戚はいないけれど、仕事や活動で世話になったひとが大勢いたのに。いまだに信じられない。なぜ、こうなってしまったのか。
報道では、市民2万人のうち、1万人以上と連絡がつかないと言っていた。行方不明者は二〜三百人と言ってたが…。
一つの小自治体の一万人以上が『大海嘯』に飲みこまれ、泥の海で息絶え、魚のように底引き網で引き上げられてしまうのか。本書『砂の城』にも随所に出てくる、訪問すればあたたかいもてなしをしてくれた気仙の人たちが――。
三陸海岸大津波 (文春文庫)
明治二十九年と昭和八年の三陸海岸の地震と大津波、昭和三十五年のチリ地震津波の被害を交通が不便にもかかわらず、バス、汽車を乗り換えながら一ヵ月以上かけて現地取材している。明治の津波被害の生存者は八十五歳を越えて、取材には苦労があったらしい。著者は、四方八方に目が届いた取材となり、自画自賛に近い満足感をあとがきで述べている。
明治二十九年でも前回の安政三年の津波から四十年を経ていて、古老の記憶もあいまいになって、“よだ”と地元で呼称された地震津波のよる甚大な被害から逃れることができなかった。五十メートルの高さもあったという言い伝えもあり、ところによっては標高百二十メートルにあった家屋まで津波が届いている。
大災害の記憶が残る昭和八年には、津波の到来を予測して山に逃げる人が多く、人的被害が減少した。そして東北の漁村の湾の入り口に大きな防潮堤が築かれるようになった。それでも太平洋の彼方から押し寄せる地震という予兆のない津波を予測するには時代を経る必要があった。それがチリ津波の教えたものであった。
現代では、プレートテクトニクス理論に基づく地震発生のメカニズムが解明されてきており、人工衛星による地震津波の観測網も整備され、一時代を画すような地震対策がとられている。それでも油断すれば、インドネシアのように災害は繰り返される。
人知を超える自然のエネルギーを前にすれば、万全という予知・対策はない。三陸海岸の津波の歴史は海に囲まれる日本国民すべてが共有すべき記憶であると、著者は訴えていると考えられる。