森と湖のまつり [DVD]
高倉健と北海道という組み合わせで一番成功しているのがこの映画だ。
ダンスウィズウルブスがアメリカ先住民を描いた以上に、アイヌの現在を神話的に描くことに成功している。自らの和人としての出自を知らないアイヌ独立の闘志である高倉健の姿はむしろマルコム・Xを思いださせるかも知れない。壮大なスケールを持っており、ぜひ大画面(ワイド+カラー)で見て欲しい。
原作よりもいい作品になっている。内田吐夢の隠れた傑作だ。
ニセ札つかいの手記 - 武田泰淳異色短篇集 (中公文庫)
そういえば内田吐夢との白熱した対話も収録された『タデ食う虫と作家の眼 武田泰淳の映画バラエティ・ブック』(清流出版2009年)で彼が映画をいかに貪欲に見ていたかを知って喜んだものでした。
本書はあの『司馬遷』『ひかりごけ』『森と湖のまつり』『富士』『快楽』など重厚な作風の武田泰淳が1963年に上梓した奇妙な味わいの小説集『ニセ札つかいの手記』で、元本には表題作の他「ピラミッド付近の行方不明者」「白昼の通り魔」の三編が収められていましたが、本文庫には表題作の他に「めがね」「『ゴジラ』の来る夜」「空間の犯罪」「女の部屋」「白昼の通り魔」「誰を方舟に残すか」の七編が収録されています。
ところで、大島渚の映画『白昼の通り魔』(1966年)が武田泰淳の原作だったことをご存知でしたか? 私はたしかに映像でクレジットを見てシナリオも読んでいたはずなのに、まったく記憶になくて、ええっと驚くことしきりでした。
表題作は、主人公の独身でギター弾きの私が源さんという謎の男から渡された偽札を使う任務(?)を与えられ、その偽札の半分を現金で戻すという、つまり渡された三千円のうち千五百円を使い半分の千五百円を返す。二千五百円だと不足分の千円を自分の懐から捻出しなければならない。私はお金には困っていなくて自活できる暮らしをしている。ではどうしてそんなことをするのかといえば、私は源さんに相方として認められたことを快く思っていて、否、どちらかというと光栄だくらいに考えている節がある。某日、源さんから絶縁という言葉を聞き耳を疑う。手持ちのニセ札が切れて、彼の家族が引っ越すという理由だった。これが最後だといって手にした1枚を、私は警察に手渡してしまう。源さんとの結びつきを確認しようと。
いわくいいがたい心理情景、不可思議な人間関係、つまらないともおもしろいとも断言できない、いいようのない人間の真理。
武田泰淳は全集まで手を伸ばしていなくて、冒頭の五作品以外は竹内好関連で中国思想・文学のエッセイや評論や対談しか読んでいませんから、本書で新たな武田泰淳像が加わってとても新鮮に感じました。
「きまってるよ、そんなこと。ニセ札は数が少くて、めったに見つからない貴重品だからニセモノなんだろ。だから必死になってみんな探してるじゃねえか。本物を探すバカありゃしないよ。本物のお札は、ありきたりの平凡なお札さ」
富士 (中公文庫)
武田が描く精神病院にでてくる患者は
架空なものであるがゆえになぜか底でわれわれと
似通ったものがある。
われわれの奥底にあるさまざまな欲動を
いろいろな形で極限化しているものばかり。
だから親近感があり、そしていろいろなことを教える。
人物ひとりひとりを見ていくだけでも面白いのに加え
異常者たちを抑えようとして崩壊してしまう
精神病院という全体の流れもあり、息のむ暇も無く
一気に読み進めてしまう。
最終章の落ち着いた武田の語りは
何度読んだかしらない。
いかにして生きるべきか。
重い思索、読んでいいようのない
充実感を感じる。
人生の中でもっとも愛する書物のなかの
一冊である。
白昼の通り魔 [DVD]
凄い映画がDVD化されましたね。今日あまり見ることの出来なくなっている日本映画の傑作・問題作は数多くありますが、この大島渚DVD-BOX発売で最後の関門が開いたかのような感慨を受けます。ビデオ店を血眼で捜しても置いてなかった作品が勢揃いしました。
そしてこの『白昼の通り魔』です。武田泰淳の原作は土俗的な生命力を持つシノに思いを仮託しているように読めるのですが、映画では明らかにマツ子先生と源治という「屈折したインテリ」の無惨な顛末に照準があるように見えます。現実の前に砕け散った理想。農村は民主主義の高邁な理想などどこ吹く風で、生き抜いていくリアリズムにべっとり塗り固められています(これは『飼育』から引き継がれたテーマ)。「恋愛とは無償の行為です」というマツ子先生の言葉は英助のどす黒い欲望の前では何の力も持たず、もはや最後には哀れにも自らの情欲を糊塗する言葉に堕するのです。それはいみじくも第1次安保世代であり京都大出身の大島監督が自らに突きつけた告発の刃のようにも思えるのです。
難解と言われる大島作品ですが、実は映画のテーマ的発展を続き物として見ていけば、監督が常に誠実にその答えを出そうと格闘してきたことが分かるのです。この作品は『日本の夜と霧』で糾弾しあったセクトの人物達のもう一つの悪夢のパラレルワールドになっていますし、青年がなぜ強姦魔になったのかを描いたのが『日本春歌考』、故あってそうなった人間を国家の名の下に抹殺していくことの是非を問うたのが『絞死刑』な訳です。
非常に細かいカット割りで出来たこの作品、せき立てられるような高いテンションの中で矛盾だらけの登場人物の行動・存在の意味が問われていきます。それは初めから袋小路に陥ると知りながらやり出した難事業。その苦闘の痕跡が全編横溢しています。この様なもの凄い邦画が撮られ、今DVDで手にすることが出来る日本の文化に私は誇りを感じます。
ひかりごけ (新潮文庫)
「富士」も読みましたが、武田泰淳の作品は、いろんな意味で「閉じ込められた人間の究極」が書かれており、読み手の私も猛烈な閉塞感、圧迫感を感じてしまうのです。それは孤島であったり、氷河であったり、精神病院であったり。普通なら置かれないところに押し詰められた人間の心、行動、それをここまで突き詰めて書けるものか?と思ってしまいます。
「ひかりごけ」では、何日も食べていない、全く食べるものがない、今後も食べるものが手に入る可能性はゼロという死目前の状況に閉じ込められた船員たちが、「人肉を食べて生き延びる」という悪魔の誘いに対し、各人それぞれの信念を貫く姿が書かれます。そういう状況下に置かれたこともないくせに「人肉を食べるなんて鬼畜だ」なんて簡単に非難できるのか。「食べずに死んでいったからすばらしい」と敬えるのか。唯一、食べて生き残った船長は、何を問われても「私はただ我慢しているだけだ」と繰り返すけれど、彼のいう我慢とは何か。読み手によって幾通りも答えが考えられるという読書の醍醐味を、久々に味わいました。