哲学への入り口としてだけでなく、哲学的な考えを実生活に役立つよう書かれているから、実用書としてうれしい。
哲学はそれ自体難しいから、入門書とはいえ私のような全くの素人にとっては「えっ?これが入門?」というような難解さがあり手強い本が多い。
でも、この本は最も易しい部類に入ると思う。
構成はシンプルで、プラトンからデリダまで30名の哲学者(思想家)の、
1.プロフィール、2.エッセンス(キーワード)、3.生活に役立つ解釈
がそれぞれページ見開きで図解してあるので、直感的に分かった"ような"気になる。(←ここポイント)
専門用語も多いが、「つまりこういうことだよね。」と筆者の解釈が言い換えてくれているから、初心者にとって理解しやすい。
この中で哲学者に興味を持ち、他の本を読んでみるのがいいと思う。
「心と心の実質婚」という帯のコピーに惹かれて購入。
渡辺淳一といえば、近年はすっかりエロス&男の身勝手な願望爆発の恋愛小説ばかり書いているというイメージだったけれど、いやあ実に真面目な本なものだからビックリ。あえて入籍という形をとらない、でも単なる同棲よりは確かな「事実婚という新しい愛の形」について、体験者のケーススタディや弁護士との対談、さまざまな年代の未婚女性たちとの座談会、スウェーデンやフランスにおける事実婚制度の紹介……などなど、多面的に掘り下げているのだ。
事実婚は、まだ日本では法的に認められていないためデメリットも多い。だからこそ、事実婚をスタートする前に、さまざまなことを(日常の家事や生活費の分担から、生まれてくる子供の姓をどうするか、愛情が冷めて別れるときの財産分与まで)二人で話し合い、了解し合って、それをできれば弁護士を介在させて文書化しておくといい、と著者は勧めている。これって事実婚に限らず、一般的な結婚においても大事なことかもしれない。文書化どころか、話し合いもせずに流れで結婚しちゃうケースがほとんどで、一緒になってから「こんなはずじゃなかった」と思うこと多いんじゃないかな。結婚前に、二人でとことん話し合うことで、お互いの違いが見えてくる。自分という人間が本当は何を望んでいるかもわかってくるような気がする。
著者は、「別に自分は事実婚を勧めているわけじゃない。こういう選択肢もあることを知ってほしいだけ。いろんな選択肢があるのを知って、読者一人一人がそれぞ自分に合ったスタイルを選べばいい」と言う。私だったらどうするだろう……と考えて、自分がけっこう世間の目や常識にとらわれているということに気づかされた。そういう意味では、なかなか奥深い一冊かも。
足先がとんがった靴を買ってしまった主人の靴に使いました。
小指が楽になったととても喜んでいました。
コツはゆっくり伸ばしていく事です。皮の靴はクリームを使うと良いかも。
学生運動の時代にはバイブルと言われ、ゲバ棒とともに持ちながら戦った。しかしほとんどの人は意味が分からなかったはずの本。フッサールの現象学と、ハイデガーの存在論をいちおう理解してから読むと、その良さも限界も理解できる。「無」という概念を現象学に持ち込んだのは画期的だが、その評価は今後に待たないといけないだろう。当時は時代を変える哲学者と言われたのに、その後はハイデガー、メルロポンティ以下という評価が定着した。本文が長すぎという点は致命的だろう。しかしそろそろそういう時代的制約を離れて作品として読む時期が到来したように思う。文庫化は良いことである。
ド・ロルボンの伝記を書く、という仕事がロカンタンに対して存在の一側面を与えていた(それは単なるアイデンティティに過ぎない?)。いつしかロカンタンはド・ロルボンに自己を投影していた。そうすることによってロカンタンは<私>という実存に対して無視を貫き通したかったのだろう。それは一体何故? という問いの正体がつまり、この小説に底流している哲学的テーマの大分なのかもしれない。だから、ド・ロルボンに対しての価値を失ったロカンタンは、ただ己の仕事の意義が見出せなくなった、というだけではなしに、<私>という、後ろ盾のない存在の根源を自覚して、何をすべきかわからなくなってしまった。 しかし、言ってみればそれは<私>から見た私に対する不安、として累進しているのではないか? ロカンタンの抱くその不安感はつまるところ哲学的迷妄であって、単なる幻想のように思える。問題の提示、という意味で彼は懐疑論者的な価値はあるだろうが、それは疑問を投げかけるだけで、およそ一般の読者を哲学的迷妄へ巻き込むだけのように思える。つまり、それは違う、という反問からしか、この小説の価値は生まれないのではないか? そしてその時点で、この小説は作品としての価値を逸しているのではないか?
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