「ウソでも百回繰り返せば本当になる」と言ったのは誰だったか。 迷信、迷妄、それ自体が実体の無いものであったとしても、それを信じる人が力を持つようになったとすれば、それはもう立派な現実となってしまうのである。これはそんなようなお話だ。 物語は壮大な言葉と歴史とオカルトの探索の旅、知的好奇心はシビレっぱなしである。めまいがするほどに巨大な知の殿堂。宝捜しのような楽しさが、突然怒涛のように動き出すサスペンスに侵食され、あとは一気にラストへなだれ込む。ガラス越しに安全な場所から謎を楽しんでいたはずの傍観者たる自分が、気がつけば当事者に。この恐ろしさ、ドキドキ感。味わわずしてなんとするか。
本作品の舞台は中世イタリア。欧州最大規模の蔵書を誇る辺境の修道院。宗教会議の会場となるその修道院で修道士が変死体で発見される。
修道院院長は元異端審問官のウィリアムにその調査を依頼、ウィリアムが弟子のアドソを連れてこの修道院に姿を現すところから話は始まる。
第2、第3の事件が起こり、修道院は混乱。開催された宗教会議も決裂となるなか、ウィリアムは調査をすすめ真相に迫る・・。というのが大筋。
迷信渦巻く中世において、理性的に科学に基づいて捜査をすすめるウィリアムの知性と師に質問を重ねる弟子アドソの姿が印象的。
ミステリーや歴史ものというよりも、私は著者のエーコが現代社会に対する警句を発している評論のような印象を受けた。
作品のなかでは信仰や学問をテーマに印象的な師弟間のやりとりが交わされる。
「唯一の過ちを考え出すのではなく、たくさんの過ちを想像するのだよ。どの過ちの奴隷にもならないために」
「純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」
「純粋さのなかでも何が、とりわけ、あなたに恐怖を抱かせるのですか?」
「性急な点だ」
「恐れたほうがよいぞ、アドソよ、預言者たちや真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人びとを自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。」
「真理に対する不健全な情熱からわたしたちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理だからだ。」
ウィリアムのこれらのセリフこそエーコのメッセージそのものであると思える。
思いが純粋で、切実であるほどに、生じる「性急さ」や「不寛容さ」こそ、エーコ(=ウィリアム)が警告する「不健全な情熱」であり、この事件の真犯人であると思えた。
善意や正義の持つ両面性、自由に生き、考えることの難しさについて深く考えさせられる作品です。
一言で言えば「心が洗われる」音楽です。 いわゆる「現代音楽」のカテゴリーには入れたくない。 個人的には、ドビッシーやキースジャレットのピアノソロに通じるものを感じる。ジャンル分類は、無意味です。
フランスを代表する碩学の対談。2008年のダボス会議でのこと。ある未来学者は、水が石油と同じ交易商品となり株価並に水相場を気にする時代になることなどと供に、書物の消滅をあげた。ここから対談がスタートする。フランスという国の厚みを再発見できた本。ページをめくるのが惜しい本。装丁もすばらしい。
訳者あとがきは、「どんなに愛おしくても電子書籍を抱きしめて眠ることはできない」と語る。クリスティ−ズ落札されたグーテンベルグ聖書は、その後慶應大学が購入したとも。同大学仏文出身の工藤妙子さんによる、日本語の平仄に敬服した。彼女の訳書を、追いかけたい。
「週刊文春」20世紀傑作ミステリーベストテンで堂々の第2位。しかし本書を純粋なミステリーや推理小説だと期待して読むと、いい意味で裏切られます。 確かに筋立ては中世の僧院を舞台にした連続殺人事件を中心に展開しますが、本書の主題は謎解きの面白さというよりも(純粋に謎解きという面からみた場合、トリックの奇想天外さや手がかりの配置の巧みさ、という点ではむしろ不十分かも知れません。)、古典文学や神学の知識を縦横無尽、幾重にも織り込んだ舞台設定を堪能させながら、殺人事件の解明というストーリーを通じて、「真理(真相)を絶対視することの危険性」を読者に問いかける点にあります。 本書は一読しただけでは味わいきれない、いや、おそらくほとんどの読者にとって、本書を味わい尽くすことは不可能でしょう。しかし、中世北イタリアの僧院というエキゾチシズムあふれる舞台設定と、「真理とは」という壮大な主題にむけて収斂、昇華していくストーリーを追いかけるだけで、十分に「読書の醍醐味」を満喫することができます。「20世紀中第2位」というのは少し大げさかも知れませんが、世評に恥じない大著だと思います。
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