ジャスミン (文春文庫)
心に残る言葉がたくさん収められている。
「世界で起きていることをすべて何らかの陰謀だとみなす人々がいる。この世のすべてはつながって、蜘蛛の巣状をなしていて、どんなつまらぬものにも秘密の意味がある。あのとき、道ばたに落ちていたしわくちゃのチラシをもし拾っていたなら……、なぜならあのチラシには世界の中心の秘密を解き明かす文字が記されていたかもしれないのだ。
それに反対して、すべての出来事を偶然の産物として、あるがままに受け入れようとする人々がいる。
彬彦は政治的には懐疑主義者だから、そのどちらにも与しない。陰謀は存在する。ただし、そう考える人にとってのみ存在する、というのが彼の見解だった。」(P263-)
そんなクールでクレバーな主人公を“運命と宿命”が翻弄する──それでもなお決して自らを失わず、大切な人をも守りきってみせる──疾風怒濤のドラマ。なんて面白い!
「たとえば、古代ギリシアの哲学者のアナクサゴラスは、政治に無関心なことをなじられ、『なぜ君は祖国を気にかけないのだ』と問いつめられて、『言葉を慎みたまえ、私は祖国を非常に気にかけているのだ』といって、天空を指したのだそうです」(P399)
そんなコスモポリタンを志向する小国ニッポンのビジネスマンが、大国チュウゴクの国家権力と渡り合う。カッコいい!
物語のクライマックス、主人公とヒロインは阪神淡路大震災に遭遇する。
「(ラジオ)死者は千人を超えたもようです」
李杏が泣き出した。
「どうして? どうしてかぞえるの? 死者はかぞえることはできないわ!(中国語)」(P428)
このヒューマニティだけが、人類を支えていくのだ。
(2011/03/18追記)
大震災や、大事故、そして戦争などが一層悲惨なのは、多数の死者が出ることによって、一つひとつの「命」が希釈化されるような錯覚に陥るからだ。親しい方が亡くなった時、お通夜や告別式やその他さまざまな行事によって、はじめて人は「辛さ」を共有して、それを軽減することができる。
ところが、一刻に多くの死者が出ると、かけがえのない「命」も、単なる「数」の一つになってしまう。
「東日本大震災で亡くなられた方々を心からお悔やみ申し上げます」と述べても、その失われた生命を考えると絶句せざるをえくなるのはそのためだ。
さらに、行方不明者の多さ。阪神淡路大震災で亡くなられた方は6434名だが、行方不明者の数は3名に過ぎない。「津波震災」である<東日本大震災>の痛ましさがここに象徴されている。
誰かが書いていたけれど、明日は満月。「スーパームーン」なんて縁起の悪いことは言わずに、節電で暗い夜、いちばん大きな月と明るい夜空に心から祈りたい。同じ月を見ている被災された皆さんのことを。亡くなられて、星になってしまった多くの魂が安らかであることを。
村の名前 (文春文庫)
文学は、性とアイデンティティーを求めていた時代である。しかし、時代が若干問題意識のズレを露呈してもいた。次の時代の中心課題は、宗教とナショナリズムだろうと評論されていたように思う。
はっきりいって、この時期の純文学は力をなくしていた、いや、文学全体が力を失っていた。村上龍がわずかに異彩を放ち、よしもとばななとかとか村上春樹が溝を埋めてた。
だから、たしかにこの話は面白い。併録の「犬かけて」も、後半ぐいぐい面白い。だけど、どこか無理がある。次世代の課題に偶然近かった題材を取り上げた作品が、たまたま時流にあったのかな、と思わないではいられない。だから、どういう傾向の作品がどんなタイミングで芥川賞候補になるかという、情報としての価値もあるかもしれない。
少なくとも、一定時間の経過した今、作者から社会への挑発がない作品であったことだけは、はっきりしている。
花はさくら木 (朝日文庫)
解説を入れて文庫本462頁の分量だが、楽しくてあっという間に読み終えた。後に女性天皇となる智子内親王、その母青綺門院等の皇族、将軍家治の第一の側近で日本の経済・社会を変革する信念に燃える田沼意次等の武士、与謝蕪村、池大雅、円山主水(応挙)、伊藤若冲等の文人、鴻池、北風等の大商人といった江戸時代中期・文化爛熟期を代表する人物が、著者の創造した人物とともに実に生き生きと躍動する。読後感は爽快の一言。
「花はさくら木」とは、智子内親王と友達の菊姫。恋のできない運命の内親王と、恋と冒険に生きる菊姫の友情がすがすがしい。そして「花はさくら木」とくれば続く言葉は「ひとは武士」で、田沼意次とその部下たちの凛々しさには惚れ惚れする。田沼は美化しすぎかもしれないが、その積極経済策は評価すべきだ。その田沼と青綺門院の、互いを認め合う京都御所での面会、田沼と智子内親王達の大坂訪問は、「花はさくら木、ひとは武士」の役者が揃う名場面だ。
物語は、貨幣経済が米主体の経済を圧倒するに至った現実の中で、重商主義を積極的に採り、江戸を大坂に並ぶ経済の中心にしようとする田沼と上方商人の対立を軸に、豊臣秀吉の時代にまで遡る歴史の流れ、上方の地理、それに中国の第1級の文物までがからんで壮大。その中で伏線を巧みにはった精緻な構成が最後まで飽きさせない。満足度100%の傑作時代小説だ。今は宴が終わったような余韻に浸っている。
東京大学で世界文学を学ぶ
まえがきに小林秀雄さんから、著者がうけた助言が引いてある。
括弧内はレビュワーの感想である
「若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め」
(そのとおりであると思う)
そして、次にこうおっしゃる。
「誰か迷ったら、トルストイを読め」
次にはこう決め付ける。
「戦争と平和を読め、文学入門書というものを信じてはいけない」
ということで私は、辻原登さんのこの本をしばし傍らに措き、『戦争と平和』を読むのである。
許されざる者 下
いわゆる戦争の功罪を、この作品から垣間見た。
戦争が起きたおかげで実現した出合い。
学校に通えない子供たちのための、寺を場とした青空学校。
これらは、戦争のプラスの側面だろう。
戦争が起きたおかげで人々の心は、もう二度ともとには戻れなくなる。
点灯屋、ねじ巻き屋、左官、車夫、……自分はその道のプロフェッショナルだ、という自分の職業に対する誇りを持ち、そして、困った人に対する同情・憐憫の情を抱き、困った人を助けたい、という美しい心、美徳をそなえた人々。彼らを戦争が直接的に、また、間接的に変えてしまう。
作中、「戦争を扇動するのは悪徳の人で、実際に戦うのは美徳の人だ」という言葉が引用されているが、あらゆる悪を扇動するのは悪徳の人で、実際に行動するのは美徳の人、なのかもしれない。可愛そうだ、力になってあげたい、役に立ちたい、そういう、美しい心をそなえているがゆえに、知らずしらずのうちに、人々は悪の道に足を踏み入れてしまう。背負う必要のなかったはずの罪、抱く必要のなかった秘密を代償にして。
繰り返し場を変え、形を変えて登場するテント。人間のように体の中に骨があるのではなく、体の外に骨がある、という構造。いざというときには、飛べる。カナブンのように。
飛べる、となると、軽そうだ。軽さ、かるみ、というのは、この小説が有している特徴かもしれない。
上林が、「小雪」という騾馬に乗り、安否が絶望視される馬渕を探しに行く、シリアスなシーン。このシリアスな局面での滑稽、郷愁をまじえた描写は、重さ、深刻さからするりと身をかわす、かるさ、かるみが漂う。
――人形の動作は、はじめはぎごちなくみえていても、太夫の語りと三味線の音色が作り出すリズムによって、生命が吹き込まれ、型にのっとって動いているにもかかわらず、ある種の自在感を獲得しはじめる。
「人形」を〈登場人物〉、「太夫の語り」を〈語り手の語り〉、「三味線の音色」を〈登場人物の発話〉に置き換えると、これは、あるいは作者によるこの小説の評言ともなりうるかもしれない。
上巻冒頭で登場した「二重の虹」、「ふたつの虹」のイメージは、たとえば、こんなふうに繰り返される。
(前略)森宮の時間が、以前の速さで流れはじめたかのようにみえた。しかし、じつはもうひとつの新しい時間軸がその下に、あるいは傍に加わって、絶えず旧来の時間を衝き上げ、合流し、渦をつくり、呑み込もうとしていた。
そもそも虹は、「古くは竜の一種と考え、雄(内側の色の濃い主虹)を虹、雌(外側の色の濃い副虹)をゲイ(※)と呼んだ」(『福武漢和辞典』より)という。「呑み込」む、というと、竜のような生き物も連想しなくもない。
「高速で移動する物体の中では、時間がゆっくり進む」。時間がゆっくり進めば、移動する物体は、速く進む? 低速で移動する物体の中では、時間が速く進む? 小説が一つの乗り物だとしたら? 小説が高速で移動すれば、読者に流れる時間はゆっくり進む? 小説が低速で移動すれば、読者に流れる時間は速く進む? ……わからない。
上巻で千春が見た不思議な夢は、下巻において結末を見る。どのような結末か? それは、読んでのお楽しみ。
辻原氏は、「ジャスミン」の中で、死者は数えられない、と書いた。ひとりの人間の死は、数字に置き換えられない。ひとはひとりひとり違う存在だから。「許されざる者」、というタイトルにも、そういうニュアンスが含まれている気がする。
結局、「語り手」としての「私」とは、いったい、誰だったのか、謎のまま終わった。あるいは、彼は、天狗の面をかぶった謎の男だったのだろうか?
※「ゲイ」は、「虫」へんに右側が「兒」。文字化けしたため、カタカナとした。