犬―他一篇 (岩波文庫)
「犬」(大正11年)と「島守」(大正13年)の2篇が収められている。
「犬」は、強烈な話。ドロドロとした情欲の世界が描かれている。性と犬を結び付けた点に奇想があるのだが、鑑賞すべきはテーマの部分ではない。リアルと幻想をまたいだような文体を味わうべきであり、描写の粘り気を追っていくべきなのである。
『銀の匙』と似たものを感じた。好きにはなれない。
「島守」は、清新な描写が美しい。ただ、小品の域を出るものではない。
日本合唱曲全集「雨」多田武彦作品集
多田武彦作品は、日本的な叙情性、高い完成度を有し、代表的な男声合唱曲である。
このCDは、その多田作品の中でも、代表的な名曲4曲を最高峰の合唱団が歌ったもの。
○「雨」・・・・京都産業大学グリークラブ(1989.3.26 吉村信良指揮)
○「柳川風俗詩」・・・・関西学院大学グリークラブ(1967.9.11 北村協一指揮)
○「中 勘助の詩から」・・・・関西学院大学グリークラブ(1971.3.11 北村協一指揮)
○「雪明りの路」・・・・・慶応義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(1969.5.24 畑中良輔指揮)
○「草野心平の詩から」・・・・慶応義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団(1971.2.17 畑中良輔指揮)
どの演奏も、うなるぐらい上手で完成度が高く、当時の大学グリーの実力に感心する。
あまり合唱のCDが手に入りにくくなっている中で、ほんとうに貴重な珠玉の1枚といえる。
日本合唱曲全集 多田武彦作品集
混声合唱を20年以上続けてきました。大の多田武彦ファンで、多田氏の楽譜・CD・レコードも沢山収集してきました。昨年は、多田氏の指揮で「柳河」を歌い、感激した思い出を持っています。
このCDは、多田武彦の20代から30代にかけて生み出された男声合唱組曲の名曲を集めた物です。録音年代にばらつきがありますが、日本を代表する名指揮者と実力あるグリークラブの演奏ですので悪いはずはありません。お手本のような演奏ばかりです。
24歳の時に作曲した『柳河風俗詩』は、日本の男声合唱組曲を代表する曲です。師事していた清水脩の元で、作曲の勉強のためのエチュードとして作曲された作品です。後の多田氏の作風とエッセンスがその4曲全てに表れているように思います。
北原白秋が、古里「柳河」に対して、郷愁たっぷりに描いた一連の詩がとても親しみやすく、白秋特有の不思議な世界がそこに描かれています。
多田氏の全作品に共通することですが、そのモティーフとなる詩の選定からして的確で、情景がはっきりとわかる素晴らしい詩ばかりを選んでおられます。長い間、多くの人に愛唱されるためには、曲だけでなく、「詩」の存在の意味を忘れてはいけないと思います。
冒頭の印象的な男声ユニゾンの呼びかけからして個性的です。全編を通してノスタルジックで、悲しげで、日本情緒もたっぷりと含まれています。至極簡単なのに、味わいぶかい仕上がりになっているところが愛唱される所以でしょう。男声合唱特有の部厚い密集和音の縦割りのハーモニーです。
当時、多田氏は、作曲するためにオルガンを使っておられたというお話を聞いたことがありますが、まさしく、オルガンの響きです。ラストの郷愁を誘う終わり方も印象的な名曲です。
他の組曲もどれも大好きで、多くの「タダタケ」ファンにとっては必携のCDでしょう。
銀の匙 (角川文庫)
中勘助は何と言ってもその文体が非常に好きです。
独特の効果的な比喩表現を用いた、さらっと流れゆくような涼やかな文章に、私はある種の癒しを感じます。
作者の過去を作者とともに振り返っているうちに、自分の幼かった頃が思い出されて、不思議な哀愁と懐かしさが込み上げてきて涙が出ました。
美しい情景と、そのなかに生きる人々。
淡々と過ぎてゆく静かなる日々。
生があり、死があり、出会いがあり、別れがあり。
そうして成長していく勘助少年の姿は実に美しく印象的です。
それにしても自分の少年時代をよくこんなに覚えているなあ…
銀の匙 (岩波文庫)
ほんとうに記憶だけで書いたのだろうか。
大人の書いた子ども、ではなく、子どもそのもの──
本書はまるで、小さい頃に綴っていた日記を久しぶりに
開いたような懐かしく繊細で清浄な光に満ちている。
繊細であればあるだけ人一倍被り感じるものの哀れに
始終涙を浮かべる少年は周囲の野卑な者の目には
確かに煩わしく見えることだろう。
そしてそれが為にますます人嫌いや憂鬱症に拍車をかけ、
うちなるもの・儚いもの・美しいものに心惹かれ
耳を傾けていく彼の心のうちが薄玻璃の花のように
痛々しく愛おしく感ぜられる。
文章も美しく、自然で衒いがない。
仲良しの女の子が遊びにくる時の足音「ぽくぽくちりちり」や、
鳥が飛び立つ時の羽音「たおたお」など、
擬音語や擬態語も澄んでいる。
いつか全文を手書きで書き写してみたいと思う。