60年代後半のベトナム戦争やヒッピー文化により混迷を極めたアメリカの社会を如実に反映した、バイオレンス・セクシャル・憂鬱なアメリカンニューシネマの代表作と、その終焉である「ロッキー」までの流れを筆者の繊細な調査により解き明かしていく珠玉の映画評論本。
もちろん多くの人が太鼓判を押されるように「この映画の本当の解釈はこうである」という真相解明として役に立つが、私はそれ以上にそれぞれの作品に込めた監督の情念というものが、町山氏の情熱的な文体から感じられた。
特に現在では大作・娯楽志向の映画を多く輩出しているスピルバーグとスコセッシがどれほど映画に愛を注ぎ、自分のアイデンティティを映画に投影していたかが分かるだけでも一読の価値がある。
改めて「映画」は特定の人間が作り出した創造物であるという原点を考えることができる。
著者本人が「こんな本を書くとは自分でも思っていなかった」という、ある意味「生き方指南」の本。そのベースに哲学、思想、ポップカルチャー、音楽が混ざっているのが佐々木氏らしい。それら全てを「いかに生きるか」という問題点に結びつけ、極めて論理的に、そして実直に語るその語り口が素晴らしいと思う。正しく誠実な覚悟の上に書かれた言葉に胸を打たれる。その主張そのものをすぐに理解する事は難しいし、その根拠となる哲学的論考を理解するのにも時間がかかるだろうが、だからこそ、今後長きに渡ってページを開くであろう、自分にとってはかけがえの無い本となりそうだ。おそらく批評家であると同時に音楽レーベルのオーナーでもあるという佐々木氏の立ち位置のバランスが、哲学の為の哲学、思想の為の思想に終わらせなかったのだろう。
何かを否定するのは簡単で、多様さや複雑さを肯定的に受け入れる事の方が時に難しく、自分にとっての試練となり得る事が多々ある。その肯定感をこれまでのニッポンの思想を軸に徹底的に論理的、哲学的、思想的に説明していく、その姿勢を何よりも肯定したいと思う。
Kodakの規格である126フィルムを使用したインスタマチックカメラを主人公であるリチャード・ドレイファスがUFOを撮影するために構えるシーンがある。フィルムカートリッジを上下逆さに入れて苛立ちながらフィルムをカメラに詰める場面。そして…息子を宇宙人に連れ去られる悲劇のママを演じたメリンダ・ディロンはクライマックスシーンでどこからかセレン式単独露出計内蔵のローライB35を出してきてUFOを激写しようとこの西ドイツ製の写真機を構えます。さらにNikonやハッセル・ブラッド等のプロユース写真機が林立した自動撮影システムの隙間からKodak110フィルム仕様のポケットカメラを構えるとぼけたプロジェクトスタッフ。映画的にはローズマリーの赤ちゃん以降…日常的にカメラを携帯する眼鏡で出っ歯の日本人…てな小馬鹿にしたステレオタイプの日本人像があったけれど…本作『未知との遭遇』を久しぶりに観て認識を新たにしたのは…アメリカ人だってカメラ好きやんけ!!…これでした。アメリカ人だってカメラで写真を撮るのが好き。欧米人がカメラを持った日本人を嘲笑したのは…西洋人の偉大なる発明品である写真機を持つ洋服を着た東洋人という醜悪で滑稽なパロディな光景に対しての苛立ちからだと思います。だから高度な科学力を持つエイリアンにあんなアホな音楽会を開催させた上に素っ裸で登場させてアルカイックスマイル…文明人は欧米人で宇宙人は科学が進歩してるだけの裸の野蛮人という図式を作って安心してるように見えるわけです。実際、インド人なんて完全に未開の人々として扱われてましたよね。宇宙人と地球人とこれまたコテコテのフランス人を演じさせられたトリュフォーに謝れよなスピルバーグ
こんなヤツおる!こんなことする!こんなことある!とうなずけることばかり。わかっているのに笑っちゃう・・・そんな曲達です。オリジナル曲もいい曲ありますよ!ある意味R指定?!
圧倒的な映像美。 スピルバーグが77年に撮った「未知との遭遇」を3年後に独自編集し、一部追加撮影して完成させた特別編。 その特別編のパンフレット。若いころ見た圧倒的な映像美を思い出しました。 CGのない時代、手作りの特撮技術の最高傑作です。
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