2000年4月。ウィーンムジークフェラインでのライブ録音。 アーノンクール最初の20世紀作品の録音であり、彼が演奏する数少ない彼の同時代の音楽である。 この曲は、シェーンベルクを体験した世代のオーストリアの作曲者:シュミット(1874ー1939)が、バッハ以来の宗教曲の伝統を踏まえた上で、両大戦間の絶望的状況と明日への希望を、ヨハネの黙示録にテキストを求めてオラトリオとして書き上げたものである。音楽内容は、多少折衷的な印象もあるが、それはバルトークやストラビンスキーの最盛期のみを基準にした評価であって、それらに対して冷静な評価の出来る今日、宗教的世界を描くという目的には適切なスタイルの採用であると思う。日本では有名な曲ではないが、20世紀前半に作曲された宗教曲の最高峰'!形成する作品であることは疑いが無い。 この曲が描くのは(アマゾンのコメントにある)キリストの受難物語ではなく、ヨハネの黙示録である。したがってサタンと戦う神の子としてのキリストと、この世が終わりに至るまでを描いている。音楽的スペクタクル風の、ある意味20世紀の後半の映画音楽を先取りする、雰囲気もただよう。 巨大な曲を完全に分析制御した、たたずまい良く、鮮烈な演奏である。我が国でも国内発売と同時にアーノンクールに批判的な評論家も含めて高い評価が与えられた。 この指揮者一流の、徹底的なアナリーゼを経た上での再構築であるため、テクスチュアの明晰さと曲の威容が矛盾せず並存する。こけおどしの音響は皆無であり、過度の熱狂・おどろおどろしさだけに陥ることなく、静謐と!厳を豊かにたたえた、宗教曲として模範的な演奏となった。。 独唱陣は優れた宗教曲の歌い手を揃え、コーラスも歌い慣れた雰囲気であり、指揮者の意図に機敏に反応している。とりわけ聖ヨハネを歌うクルト・シュトライトは印象深い。バッハ作品に要求されるようなクオリティーを維持しながら、適度な豊かさもあり、聖ヨハネ(もともとワグナー歌手を想定して書かれたらしい)の宗教的敬虔さを十全に表現した。この人のマタイの福音史家を是非聴いて見たいと思う。 なお解説書に、この曲と黙示録の宗教的な解説を、指揮者の兄弟のフィリップ・アーノンクールが簡明に行ってくれており、国内盤解説にも翻訳が掲載されている。こういう宗教的な文章は外国語では読みにくいので、これは国内盤の値打ちだろう。
「Sailing to the World」は「世界に航海する」という意味。 それにふさわしい曲の数々がこのCDに入っています。 皆さんと同様になってしまいますが、 おすすめは二曲目の「Sailing to the World」です。 気持ちが明るくなれるような、その雰囲気が大好きです。 光田康典さんの出されているCDの中では 全10曲という少な目の曲数ですが、それを忘れさせる とても内容が濃くすばらしい作品なので、是非聞いてみてください。
「チェスをする死神」「死の舞踏」等の宗教画をベルイマンが見てイマジネーションを膨らませ、ヨーロッパ中世の「ペストの大流行」「十字軍」「魔女狩り」等の当時の世相を織り交ぜ、一糸乱れず見事に中世の世界を蘇らせたベルイマンの手腕は神業に近いと思った。全体的に暗く不気味な雰囲気が漂っていたが、軽業師一家の場面になると、平和でほのぼのとした感じとなり良いアクセントを与えていた。城に死神が現れた場面における騎士の部下ヨンスが助けた女の顔の凍りついた表情は、素晴らしい。また、死神が木の上にいる男を殺すため、木を切る場面は、どこかユーモラスで秀逸な場面である。単なる恐怖映画ではなく、「人はどこから来てどこに行ってしまうのか」という哲学的な事を考えてしまうような、とても深い映画です。
このBOXセットの中で最もベルイマンらしくないように見えて、最も興味深いのがこの映画です。とにかく1920年代のドイツベルリンを再現した映像に圧倒されます。重厚な色彩のスヴェン・ニクヴィストのカラー映像には鳥肌が立つくらいの・・・。何と言っていいのでしょうか。この映画の映像を観ていて思い出だしたのは、マイケル・チミノの「天国の門」のV・ジグモンドによる完璧な映像美です。リヴ・ウルマンいわく、「ディノ・デ・ラウレンティスにより強大な予算を与えられてベルイマンは舞い上がっていた。それまでのベルイマンが得意としていた人間を描くことよりも街路や建物の外観を描くことに夢中になっていた。それまでは15人程度のスタッフ、キャストで撮影していたのが100人規模の撮影になったのだからと。」でもこのお金をかけた豪華セット、美術はすこぶる魅力的。ベルイマンらしくないことで失敗作と見なされているようですが、ヒトラー台頭前の時代の空気を濃厚に感じさせるところに既にベルイマンの意図は成功しているのではないかと思います。これまで個人としての人格崩壊を描いてきたベルイマンですが、ここでは国家としての崩壊を拡大して描きたかったのではないでしょうか。蛇の卵とは、薄い膜を通して見える蛇(怪物)の姿を表しています。この映画はヒトラー蜂起の失敗で終わりますが、明らかに第二次大戦でのナチスドイツの怪物を作り出した土壌を描いています。二度と同じ過ちを繰り返してはいけないという強烈なメッセージとも思います。20年代のドイツ表現主義を再現したかったのではないかという映画研究者の発言(特典映像)がありますが、セント・アンナ病院の迷宮のような描き方を含め、何かフリッツ・ラングのドクトルMを思わせるところもあります。個人的にはこの作品を観るまではB級アクションスターという印象しかなかったデヴィッド・キャラダインがもの凄く魅力的で存在感を感じさせて素晴らしいです。 では、クルト・ワイルの三文オペラ ’アラバマソング’ を聴きながらこの映画の余韻を楽しみたいと思います。
本書の推理がどこまで真実に近いのか検証する術を、私たちほとんどの一般人は持っていないので、どれだけ真相を明らかにしたかという点で本書を評価することは困難だろう。だからどれだけ納得できる方法で、公開情報のなかの不自然な点と点を結びつけていくのか、背後に広がる大きな闇をどれだけ固有名詞とともに明らかにできるのか、読者は著者の組み立てた仮説をただ追いかけることしかできないが、その推理に一定の合理性があるからこそ、著者は読者を獲得しているのだろう。 本書の中でも、ライブドア事件の渦中、懐刀の野口(エイチ・エス証券副社長)が沖縄で不自然な自殺を遂げた(’06)のは記憶に新しいだろう。 当時のライブドアは大規模株式分割やMSCB発行など、新しい手法を駆使した資金調達で市場を賑わせていた。が、ある日特捜による捜査がはじまり、一気に堀江はじめ幹部が逮捕され、ライブドアという会社の成長も止まる。堀江の実刑は確定したものの、結果的に粉飾決算の規模としては日興証券やオリンパスに比べて小さく、いろんな意味でライブドアという企業の栄枯盛衰が市民にとっては理解を超えていた。 本書の言うように、株式市場が堅調であった当時、市場という賭場で裏社会のシノギが活況だったと捉えるのが合理的だろう。そのシノギの窓口がライブドアという企業であり、その取りまとめ役が野口であった。野口が裏社会の逆鱗に触れたか不要になったかして、沖縄で消されたと考えるべきだろう。妻が絶対に主人の持ち物ではないという服が落ちていたり(それを家族以外の誰かが警察に取りに来たり)、非常ベルが二度なったり、ためらい傷らしきものが利き腕の手首にあったりと、不自然極まりない状況を「自殺」と早々に判断した警察にも疑問が残るが、ライブドア周辺の紳士たちをみると、消されるべくして消されたという状況には納得がいく。
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