とても平易な言葉で、幼い日の思い出や周囲の人々のことが、なんの気取りもなく素直に綴られていく。感じずにいられないのは、彼女の性格のよさとともに、1978年生まれながらすでに身につけている、常人を超えた人間観察力。本当に彼女は、昭和の大文士島尾敏雄の血を、色濃く深く引いているのだ。遺伝子ってスゴイ。
とりわけ父伸三氏の妹マヤさんとの、固い絆で結ばれた交流には胸を打たれる(マヤさんは、中学生になってから突然声を失い、四肢も不自由になるという奇病に見舞われた)。綴じ込みの写真からも、島尾家の雰囲気がよく伝わってくる。
いつか作家しまおまほの小説が読める日がくることを、楽しみにしたい。ただし、この本は島尾敏雄をめぐる人間関係や、「死の棘」を読んだことのない人には無意味かもしれない。
この繊細かつ微妙な言葉の呼吸にシンクロできる読者は、相当の読み手。 文章を味読できる人、「文学力」のある人だ。 駄文にまみれた生活を送っている人には、残念ながらこの凄みは分からぬだろう。
実在の作家の幻の作品か?という設定がどれだけ魅惑的でしかしチャレンジングなものであるか、文学を志す者や小説を愛する者には分かってもらえると思う。私の5つの★の一つは先ずこの点にであり、逆にこの点や林芙美子や作品の描かれた時代背景に興味や知識のない方なら、絶対につけない★とも言える。
私自身、作者が林芙美子の文章を書ききるための労苦やその成果を十二分に受け止める素養があるわけではないが、平たく言えば「昭和の前半の桐野夏生の過激版」が描く世界と勝手に解釈して、本作に一気にのめり込んでいった。
この作品が作者の過去のテーマや内容に似ているとの評は表面的に過ぎる。作者は、己に通底する「ナニカアル」を芙美子に感じたからこそ、この作品を描き切ったと解する方が、この作品を素直に深く味わえるだろう。つまり、冒頭のような頭で読むアプローチが出来ずとも、他の桐野ワールド同様に、本能で感じ、肉体に味あわせることで、改めて頭の中に読むべきナニカが現れるはずだから。
とにかく読み切った後に己の中のナニカアルが感じられたなら、虚実の狭間にこそ本当のナニカがアルであろう本作の、実在の人物や史実を調べていって欲しい。そこにないものに、芙美子は、そして、作者は何を感じたのか?
実に味わいの深い作品だと思う。一読して★を5つにするのではなく、★が5つになるまで読み重ねる作品ということ。
昭和の大作家島尾敏雄は、芥川賞をのぞく日本文学界の各賞をほぼ総なめにしたにもかかわらず、没後二十数年を経て、「死の棘」、「死の棘日記」以外の作品は、一般に読み親しまれているとは言いがたく、とても残念に感じる。戦争を題材にした物語がエンターテインメント化されてしまった今では、「戦争文学」は若い読者を構えさせてしまうのかもしれない。
しかし、誤解をおそれずに言えば、「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「その夏の今は」の、あの八月半ばの日々を綴った一連の作品は、戦争文学であるのに、まるで安部公房をロマンティックにしたように読めるし、「夢の中での日常」「島へ」など幻想的な作品群は、日本版カフカとも言えるだろう。
「あらゆる不幸は実らずに枯れてしまい、中間地帯にとり残されたまま老けてしまう」(「鬼剥げ」)、「不毛への意志のようなもの」(「島へ」)という一節に表われているように、島尾氏の視線は常識的な日常、人がそうであると了解している現実とは別次元で、古びることのない神秘性と暗い端麗さをたたえ、今もパワフルに胸に迫ってくる。
巻末の吉本隆明氏の簡明で味わい深い解説がよいガイドになったが、作品の初出一覧のない点は惜しまれる。復員後まもなくなのか、「死の棘」事件後に書かれたものなのかなどがすぐにわかれば、作品への興味や理解もぐんと深まると思うのだが。
表題作などの戦記物は今でもかろうじて他の本でも読めるが、この本には、戦後まもなく昭和22年のデビュー作『単独旅行者』が収録されている点が貴重だ。 学生時代を過ごした街へ戻ってきた「僕」は、知人のロシア人宅を訪ねてから、バスで一緒になった女と同宿して一夜を明かすが、翌日には別れて旅を続ける。それだけの話なのに、読む者はすでに島尾文学という王国が確立されていることに気づかされる。そこは「不安が転移して行く」世界であり、「身体もめちゃくちゃだし、此処(頭)も時々変になるのさ」との告白がなされる場所だ。 特攻体験から生還した島尾氏は、戦後の世界には自分の居場所がない、と絶望していたのだろう。『帰魂譚』(昭和36年)では、「私は家に帰るために、いったいどこで下車したらいいのだろう」と書いている。 さらに、原因不明の言語障害に陥った長女マヤを神経科へつれていく『マヤと一緒に』では、「家族の誰かが気がふれるというイメージを消すことができない」と記している。 端正な文章の間から、とどめようもなくあふれ出してくる作家の不安。それは、ある種の悲しい神話のように、いつまでも胸の奥で響き、こちらまで何かを喪失したような気持ちにさせられた。その意味で、ものすごいパワーを持った作品群だと思う。
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